過去を振り返ってみても、室町はその人が自分に対して、丸い目をさらに丸くしたのを見たのは、それが二度目だった。 東方が割と頻繁に図書室を利用する、というのは室町もそこに通うからこそ知りうる情報だ。 南や千石のように、常日頃から行動を共にしていない、学年が違う身なのだから、それでなくとも情報は少ない。 部室で本を読んでいる姿を頻繁に見かけた。 部長の相方ということもあり、加えて時間には気帳面な方らしく早めにやってくる東方を、部活が始まるまで、もしくは南に付き合って部活後に。 何を読んでいるのか、集中している時に話し掛けるなどという無粋な真似はできず、丸まっていた猫背の上半身を伸ばしている後ろからそっと、肩越しに机に置かれたタイトルを盗み見る。 室町が入部してからもしばらくは、互いに饒舌ではないせいか、部室で二人きりになっても、挨拶ぐらいで会話は弾まなかった。 千石や南を通して仲良くなった、というより、室町自身は半ば巻き込まれた気でいたのだが、話す機会が増えてからも、やはり仲介人がいなければ、互いに進んで話題を提供しようという素振りは見せない。 交わす会話も、千石達のことが殆どだった。 それでも特に、何か話をしなければ気まずいというわけでもなかった。 初めて室町が東方と沢山喋ったと記憶しているのは、去年の秋のある日の放課後。 読みたかった本が蔵書の最上段に位置した図書室で、背後からにょきっと伸びた腕が、ひょいと目的のものを取り出したから驚いて、思わず悲鳴を上げてしまったのがきっかけだ。 今より背が低くて、首が痛くなりそうなほど見上げていたそこから、東方は難なく一冊を取り出したのだ。 左右にもびっしり本が並んでいて、間違うことなく東方がそれを取ってくれたことにも、驚いた。 「化け物でも出たような顔で見ないでくれよ。」 室町が振り向き、後ろにずりさがった反動で棚にぶつかり、雪崩を起こしそうになるそこを押さえながら、反対の手で室町の口を塞ぐその顔は、明らかに笑いを噛み殺している。 気付いたら、感謝の言葉より先に、手が出ていた。 耳に入ったのは、分厚い紙の束が宙に舞い、次々と床に滑り落ちる音。 突き飛ばされた東方の後ろからも、同じような現象。 一瞬目を丸くしてから先にしゃがみ込んだのは先輩の方で、さすがに室町も慌ててそれに続く。 「…すみません、東方先輩…。」 不時着陸した本を拾い集めながら俯いた姿を盗み見れば、彼の広い肩が震えている。 慇懃無礼だと思われてもいたしかたないと、室町は白いズボンが汚れるのも気にせずにその場に正座した。 「突然で驚いて、でも先輩が余裕だったんで何かムカっときて…。」 「…。」 カバーを天井に向けて開きかけの書物から、飛び出たしおりの紐の部分に指をかけたまま、東方が何かを呟いた。 元から低い声がさらに潜められていて、聞き取れずに室町は床に手をつくと前のめりになり、恐る恐る顔を覗き込む。 ここで返事をしなければ次はその声で何を言われるのだろうと思うと、やむを得ずの行為。 「あっはっは!室町が怒った!」 今まででもっとも至近距離で見たそこには、予想に反してくしゃくしゃの笑顔で、体勢を崩して尻餅をついた東方の口を、今度は室町が手で塞ぐのがやっとのことだった。 差し出された紙パックのジュースを受け取るも、ストローをつき差した後何を切り出せばいいのかわからず、室町は黙って東方の背中を見つめた。 己の分を自販機の取り出し口から拾うと、それを振りながら彼は渡り廊下へ続くコンクリートの階段に座り込んだ。 「あー、背中痛い…またジジくさいって言われちゃうな。」 腰をさすりながら室町を見上げてくるその顔は苦笑いしているものの、瞳の奥は何を考えているか読めない色。 しばらく互いに無言でそれをすする。 室町は流れ行く雲を虚ろな目で追いながら、初めて気まずさを覚えた。 「すまん、奢りだ。」と渡されたそれが、途端に生温くなる。 遠回しに責められている気にさえなった。 「ほんと、すみません。」 年上の人を見下ろして話すのも気が引けて、少し離れたところに腰を下ろす。 「俺にぐらいには思ってもないこと、言わなくてもいいんじゃないか。」 この先に続く部室の方を見据えながらさらっとそう言われて、室町はもう少しでむせるところだった。 「え?」 「『急に話し掛けたアンタが悪い』って顔に書いてあるからさ。」 ストローをくわえたまま瞬きもできずにいた室町の肩を叩くと、東方は立ち上がった。 「…なんであれだってわかったんですか?」 「そんなの、いつも見てればわかる。俺と趣味が似てるんだなって。」 屑篭に空になった箱を放り投げると、伸びをしながら振り返った。 「助けが来たぞ。じゃ、お先。」 室町に笑いかけながら頭を撫でるその手が予想外に温かくて、今度は心から、すみませんと胸の中で呟いた。 「お、室町。今日も早かったんだな。」 部室の鍵をじゃらじゃらとぶらつかせながらやってきた新部長に挨拶をし、室町も立ち上がった。 「おい東方、ケツ汚れてるぞ。どっかで転んだのか?」 「まぁな。…おいおい、もうちょっと手加減してくれよ。」 汚れを叩いてやる南に、東方は顔をしかめた。 「こんなでっかい図体して、ケツの穴小さいこと言うな。」 「…いてっ!…っ…。」 親切を仇で返された腹いせとばかりに振り落とされた掌は、見事背中に命中した。 そんなやりとりを見つめながら、室町も後に続いた。 もしかして知らず知らずのうちに、自分も先輩の興味のある本を探していたのかもしれないと考えながら。 巡り巡って、今年の東方の誕生日。 あれからしょちゅう、彼と鉢合わせした室町は、大体彼がここへやってくるペースをつかんでいた。 「東方先輩、もしかしてこれをお探しですか?」 新刊コーナーの前で、先客が引き換えに残した空きスペースにうなだれている大きな背中に忍び寄ると、室町はリボンのかかった包みを押し付けた。 教育熱心で生徒一人一人の自由をも重んじる校風の下、この図書室も例外ではなくて、発売されたばかりの本も比較的すぐに貸し出される。 中学生の身である以上、そうそう思うように書店で購入することもできないのが現状であり、それがハードカバーなら尚更だった。 土曜日の放課後、部室の鍵を片手に新部長の室町は、食堂に行く前に寄り道をしていたのだった。 週末を前にして彼がここへ来る確率は高かったから。 「わっ!」 口を手で覆いながら振り返った東方に笑いを堪えながら、室町は「しーっ。」と人差し指を唇の前に立て、合図を送る。 「開けてみて下さいよ。俺、喜多と飯食いながらメニューの打ち合わせするんで、ほら、早く。」 「え、あぁ…。」 後輩の気迫に押されたのか、先輩はバッグを床に置くと青いリボンを解き始めた。 「…これ…。」 包装紙から顔を覗かせた表紙に、東方は目を丸くする。 「お誕生日、おめでとうございます。おうちでゆっくり堪能して下さい。」 「あ、どうも、ありがとう。…なんでわかったんだ?」 脇に本を挟みながら、丁寧に包み紙を畳む東方に、室町は笑顔でこう言った。 「そんなの、いつも見てればわかりますよ。」 あの時照れ臭くて言えなかった、気にかけてくれてありがとうございます、の意味も込めて。 |
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