どうして今日、寝坊しちゃったんだろう。 どうしてこういう日に限って、電車が遅れるんだろう。 どうしてヒールの高い靴を履いてきたんだろう。 どうして、こんな日に限って…東方さんに会うんだろう。 私はすぐ目の前にいる上司の顔をまともに見られなかった。 「すみません、乗ります…!」 閉まりかけたエレベーターに向かって、頭上で手を振りながら走り寄る。 つい最近買ったばかりのパンプスは、ヒールが細くて、足元が頼りない。学生時代はどちらかと 言えばカジュアルな服装が好きで、正直こういった靴は、社会人の身だしなみとして履いて いるに他ならなかった。 確かに脚が引き締まって見えるし、身も引き締まる思いがするけれど、やっぱり未だに慣れ ない。特にこれは、見た目は美しい代わりに、気も遣う。でも今日は、他のものを出して いる時間がなかった。とっさに引っ掛けてきた、と言った方が正しい。 昨日は私の所属する部署で、飲み会があった。ちょっと気になる同期の男の子も参加だった から、私なりに服装には気合を入れた。以前の私だったら、そういう自分に嫌悪していたのに。 まぁきっかけは何であれ、忙しいけれども張りがある生活も悪くないと思う。密かにネイルに 凝る楽しみも覚えたし。 でもやっぱり、この靴は失敗で、昨日飲み会に遅くまで出たのも失敗だったんだ。 今日は大切な用件の締め切りで、一秒でも早く朝のうちに下調べをしておきたかった。 だから、いつもなら次のエレベーターを待つのに、無謀にも駆け出してしまった。 案の定段差も何もないところで躓き、目の前で締まりかける扉を見て、何故だか泣きたくなった。 原因は自分にあるから、何とも言えないんだけれど。だから余計、悲しくなった。 痛めた足首に顔を歪ませながら、私はがっくりと肩を落とした。 「くん、すまない。さぁ、乗って。」 突然閉まったと思った扉が開いて、聞き慣れた声がする。はっと顔を上げると、東方さんが ドアを手でこじ開けて、中から身を乗り出していた。 「すみません…ありがとうございます。」 ボタンの近くにいた人が慌てて「開」を押してくれて、お礼を言いながら何とか横向きの形で 中に乗り込むことができた。始業時間間近のエレベーター内は混んでいて、私は必然的に東方さんと向き 合う形になってしまう。 しかも上昇し始めた振動で、足元がよろけてしまい、思わず東方さんの左手首を掴んで しまった。相手の身長がかなり高いから、ヒールを履いた私でも、すっぽり胸元におさまる格好 で。 「あ、すみません!東方さん、手、大丈夫ですか?」 「くんこそ、足大丈夫?俺はいいから、しっかり持ってろ。」 咄嗟に離そうとした手を今度は私が掴まれて、東方さんの二の腕あたりに固定されると、 今度はその上から大きな右手が重ねられる。ここを握っていろ、という意味らしかった。 休みの日は中学時代から続けているというテニスや、ジム通いが趣味というだけあって、想像以上に しっかりと筋肉がついている。 東方さんは私の直属の上司で、二十代後半。仕事は有能で、部内で一番の出世株と 期待されている。でも全然威張ったところがなくて、仕事以外ではどちらかと言ったら天然な人 だと思う。 けれども、どこか、何を考えているかわからないところがあるのも確か。つまり、自分の ことは余りさらけ出さないタイプ。人当たりは優しくて、物腰も柔らかいから、実際話してみると 楽しい。 楽しいんだけれど、苦手。苦手と言うよりも、緊張する。威圧感は決してないのに。 それはひとえに、この人の身長のせいかもしれない。私がヒールを履いたって、20cm近く差が ある。187cmだなんて、ちょっと出来すぎだと思う。「バスケやバレー部じゃなかったんですか?」 って聞いたら、「そんなこと、考えもしなかったなぁ。」ってにこにこ笑っていた。よっぽどテニスが 好きだったらしい。 だから身体もがっちりしている。いつも仕立てのいいスーツを着ていて、それがまた似合って いる。髪の毛を後に流して、ネクタイをゆるめて、お酒を飲む姿も様になっていたなぁ。 顔も、パーツがはっきりしていて、結構端正だと思う。一重で大きい目とか、鼻筋も通って いるし。私が気になる男の子は、皆もキャーキャー言うけれど、東方さんの場合は、陰で憧れ ている人が多い気がする。 なんだ私、気付かないところで結構見ているみたいだ。 それを自覚したら、今のこの状況がとても恥ずかしくなった。厚い胸板に顔を埋めているのだ。 春先の、薄い黒のトレンチコート越しフレグランスの香りがして、眩暈がしそうだった。 今日の私、化粧もままならないまま急いで家を飛び出したから、ついちゃう心配はいらない かもしれないけれど、だから余計、顔を上げる勇気がない。いつもならマスカラもっと、つけて いるのになぁ…。 そこまで考えて、掴んでいる右手が何故だか熱を帯びてきた。思わずぎゅうっと、東方さんに しがみついてしまう。私の手を包む、長い指。その掌が冷たいことを、当然ながら今日初めて 知る。 「昨日くん、錦織くんと楽しそうだったよなぁ。」 突然頭上から、艶のある低音で囁かれて、ゾクッとした。確かに東方さんも参加していた けれど、まさか私のことなんて気にも留めていないと思っていたから。 「…いえ、彼は楽しい人です、けど…。」 「けど?」 「…錦織くんは、その、彼女がいます、ので…。」 歯切れ悪くそう言い終えると、足首が痛み出した。でも不思議と余り、胸は痛まなかったけれど。 確かに昨夜事実を知った時には、少なからず落胆していた。けれどもそこにすぐさま諦めの色と、 予想していた事態を受け入れる余裕が生まれたのもまた、事実で。 「あぁ、くん、ごめんごめん。」 大きな手で頭を撫でられて、思わず顔を上げてしまった。途端にこちらを真っ直ぐに覗きこん でいる、その綺麗な曲線を描いた瞳に捉えられてしまう。 私が俯いたままでいるのを、落ち込んでいるのと勘違いしたみたいで、口調は慈悲に満ちている けれども、投げかけられた視線は揺るぎない。 仕事中の、きりっとした真剣なそれとはまた違う。これは、きっと、ひとりの男の、目。 私は注がれる魅惑的な眼差しと、俗に言う大人の色香に全身を支配されたまま、動けな かった。 「というよりこれは、セクハラだな。くん、悪かった。」 周りから注目されているのを察して、東方さんはその手を頭から離す。冗談めかした口調 だったけれども、顔は笑っていなかった。 私の知っている、温和な彼ではない。もっともそんなもの、向こうからしたら、知っているうち に入らないんだろうけれども。 「いいえ…。」 私はかろうじて首を小さく横に振っただけで、また俯くことしかできなかった。その後はただ ただ、息をひそめたまま、この鼓動がどうか伝わらないよう、祈るだけだった。 私の働く部署は実際、このビルの上階に位置するけれども、今日ほどエレベーターに乗って いる時間を長く感じたことはなかった。 ようやく目的の階について、解放された私は、もはや急いでいた理由も忘れて、ふらふら した足取りで、小さな箱から一歩を踏み出した。流れに身を任せて、押し出されたといった方 が正しい。 狭いところに押し込められていた、こもった空気と、緊張の糸が解けた安堵感からか、熱い ような冷たいような、もしくはどちらも入り混じった汗が背中を伝う。 ふぅ、と人知れずため息をつきながら、近くの壁に手をつこうとすると、後ろからその腕を支え られた。 「おっと。くんやっぱり足、痛いんだろう?無理するな。」 振り返ると東方さんだった。 「あ、すみません。その、さっきもありがとうございました。」 「俺の方こそ寧ろ、くんにお礼言いたい気がするなぁ。」 彼の意図することがわからず、きょとんとした顔を向けることしかできないでいた私の腕を 離しがてら、囁いたひとこと。 「さほどショック受けてなかったみたいだからさ、くん。それ、いい方に解釈させてもらえる のかな?」 今まで聞いたことのない、甘く痺れるような音色。擦れ違いざまにのぞいた笑み。 その一瞬で、私は東方さんにどう見られているのか、東方さんが何をどう見ているのか、 もっと近くで知りたいとはっきり感じた。 背伸びでも、構わないから。 足首は、幸い大したことがなかったけれども、その後も甘い痛みとなって、今でも心の片隅で 燻っている。 慣れないヒールを履いていたのはもしかして…。 理由とかきっかけなんて自分が思うより案外、些細で簡単なことかもしれない。 |
『SWEET PAIN』/明芝 | TOP |