001 拾った生徒手帳 |
「これ、千石から返しておいてくれないか?亜久津に。」 少し顔をしかめながら南が差し出すのは、掌サイズの薄い証明書。 「おや〜、問題児にさすがの部長もお手上げですか?」 レンズにまで睨みを利かせているその持ち主を思い浮かべ、軽口を叩きながら自分に託すその意図を考える。 亜久津を苦手とすれど、そこて避けないのが南だと千石は思っていたから。 そもそも千石と南は同じクラスで、亜久津を捕まえる機会が多いのは、彼と同じ教室の東方というのが妥当なところだった。 そこまで気を回すぐらいなら、フットワークの軽い南なら自分で持って行くだろう。 「困るんだよな、溜息の次に物欲しげな目で俺を見られても。俺は亜久津じゃないんだから。」 青い革製の生徒手帳で軽く千石の頭を叩くと、南は腕を組んだ。 「そんなことわかってるよー。亜久津は南と違って派手だからね。」 その目は口調の割に優しくて、千石はもどかしさを誤魔化すように南にぶつけた。 「じゃ、東方に頼んでくる。」 「げ、勘弁して下さい!渡しますから亜久津くんに〜」 頭上高くにひらひら掲げられると、リーチの差で敵わない。 跳躍力がある千石だから、飛び上がれば簡単に奪えるのだが、今大事なのはそういうことでもないらしい。 「よーし。じゃ、頼んだぞ、千石。」 「ねぇ、これって雅美ちゃんの入れ知恵?」 手にしたそれからは煙草の匂いが嫌でも鼻について、先ほどの南の表情に思い出し笑いをしそうになる。 背中に怒号を受けながら、それでも透けて見える気恥ずかしさ。 千石は譲り受けた微かな繋がりを後ろポケットにぎゅっとしまい込んだ。 百発百中のラッキーより、南の的外れな、それでも代わりの効かない直球にあやかれますようにと。 「で、これ、亜久津に返すように頼まれたんだ。ハイ。」 何日か経ってから、千石は昼休み、彼の半ば指定席である屋上へ赴くと、制服のズボンの右ポケットから生徒手帳を取り出した。 狭い場所から捻り出された革製のその表面は、少し皺が寄ったように見えた。 もしかしたら、素行がよろしくないらしい彼だから、以前から何かと出番が多かったのかもしれない。 もっとも、亜久津にとってはテニス部はおろか山吹中学に在学するという証明も、常に尾鰭がついて回る噂も、どうでもいいことらしかった。 「あぁ。」 フェンスにもたれて座り込んでいた彼は、自分の前にほんの少しだけ落とされた影に目を止めた。 「亜久津って、煙草の銘柄何なの?」 「ハン、知ってどーするよ?」 馬鹿にするような口調と、予期せぬ質問に動揺しているらしい、意味もなくズボンの両ポケットに手を入れる癖。 千石が彼と少なからず関わりを持つようになる前から、一通り、よくいえば武勇伝にあたるそれを聞いていたが、実際今までその現場に遭遇したことがほぼなかった。 「いや、俺もハッタリで知っておこうかな〜ってね?」 「…。」 同じように酒だ煙草だと難癖をつけられることが多いことは、黙っておいた。 未成年だからというカテゴリーに従うより、スポーツマンとして吸わないから、だなんて口にしたオチ、予測がつきすぎる。 「亜久津がアメリカ行ったら思い出すぐらい、いいじゃない?南にも物欲しそうな顔してるとか言われちゃって屈辱。」 「てめぇはいつだって、盛ってんだろ。」 「はは、これでも健全な男だからねぇ。」 遠回しにアピールしてみても、かすりもしないのはいい加減に慣れてみた。 一世一代の切り札も、彼が初めて夢中になった存在の前では、霞んでしまうらしい。 誰からも、テニス留学の話なんて聞いていなかった。 部室の前で南が拾ったという手帳。 何もかも置き去りで去っていった亜久津がそこに戻る理由は、新に見つけた情熱を形にするため。 そこに千石が含まれる可能性など、はなから含まれるはずはないのはわかっていた。 もしかしたら、部室の鍵を開けた南はそこで何かを聞いていたのかもしれない。 亜久津の口から直接耳に入れようという、彼なりの気遣いか。 悪い予感は、否定しないという形で、現実になってしまった。 可愛い女の子と、拳と。 手っ取り早く年頃の欲求不満解消をする方法を、周りより少しだけ早く覚えててしまっただけの話。 お互いの寂しさを、目的があった者同士で舐めあうだけ、手を汚さない傍観者にとやかく言われても、痛くも痒くもなかっただけの話。 そしてその方法がテニスという、至極健全なものへ変わっただけの話。 自信の裏打ちを見つけた今、悪戯な誘惑に耳を貸す余裕がなくなり、立っている場所は同じだというのに。 それなのに千石の胸に押し寄せるのは一抹の虚しさ。 「いつ立つの?安心してよ、部員皆で見送りなんて無粋なマネしないつもりだから。」 千石はフェンスを掴むとついでのように、亜久津に最終期限日を訊ねる。 「まだ決まってねぇ。てめぇに言う理由もねーだろ。」 「まぁね。俺も、忙しいんだよ、これでもさ。」 ジムに通って身体を鍛えるのに、そこはかっこ悪いから省く。 「せいぜい部活で汗水たらすんだな。てめぇといると南ともう一人がウザったらしくてたまんねぇ。」 ねぇどうして、理由を知ってるの、それを聞くのは亜久津と一緒にいることを許された千石ではなかった。 じゃあどうして、俺を傍に置いておくの、その言葉を飲み込むのも慣れてみた。 「あ、やっぱり行く日教えて!いつか試合してもらえるよう、挑戦状渡しに行くから。」 大きく伸びをすると、ジリジリと太陽が肌を刺す。 「くっだらねぇ。普通予告するもんかよ。」 「普通って、亜久津の口から聞くと新鮮だなぁ。」 空調の室外機から、生温かい風が吹き出て、学ランの裾がめくれた。 薄い布切れも、薄い紙切れも、亜久津と千石が同じ場所にいるという、証明。 「あ、飛行機。」 最初から、彼の視線の先に自分がいるはずもないことは、千石にも百も承知だった。 視界の隅に存在する、それを許されることは一種のゲームみたいなものだと思っていた。 「…ないで。亜久津。」 轟音に掻き消されたそれは、夏雲とともにやがて流れて消えていくのだろうか。 夢が重なった瞬間が、別れ目になるだなんて。 「あ?そん時くれてやるっつったんだよ。煙草。」 笑顔で手を振れるよう、準備期間はまだある。 行かないで、それを言うのはあまりにも怖かった。 「うん、わかった。」 本当の意図を知らずに、自分の抜け殻を押し付けていくなんて、残酷極まりない。 それでもいつまでもしがみつくのは、そこに僅かな可能性があると、千石が信じてしまうから。 なんてやっかいな拾い物。 お題配布元:applepie
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