14/しっぽ
「トカゲってさ、しっぽ切って逃げる時、痛くねぇのかな?」
二年生になってから一月ほどして、連休中のある日。
南と東方は午前中の部活が終わってから、図書館で額を突き合わせて理科の宿題をしていた。
生物について、重たい図鑑を何冊もテーブルに積み上げ、真面目に問題を解いていたのは最初だけだった。
腹ごしらえを済ませた昼下がり、空調の効いた室内で疲労も心地良さ程度に回復したとなれば、次に襲ってくるのは眠りへの誘惑。
東方は惰性で続けていたが、向かいに座った南は自分のノートに顎を乗せると、東方が見ていたページに腕を投げ出してくる。
「うん?」
いちいち痛かったらさぞかし大変だろうな、そう答えるのは簡単だったが、東方は南が提示する何かの取っ掛かりには時々首を捻りたくなる。
何を言っているんだかとお手上げになるのではなくて、唐突で、例えが難解なそれを知りたいと思う好奇心が勝る。

「でも、痛くたって次生えてくる保障がありゃ、いいと思わないか?」
身体をだるそうに起こすと頬杖をつき、もう南の目はカラーのそれに釘付けだった。
「ちょっと待て。それは、南は痛いって仮定で言ってるのか?」
せわしなく彷徨う視線はまるで、獲物を見定めるそれで、東方はせめて猶予をくれと、南の額を手で抑え、これ以上寄ってこられないようにガードした。
よく言えば思慮深い、悪く言えば会話を呑み込むのに時間を要する脳に、南からの矢継ぎ早の質問は時に厄介だった。
しかも、自分は言いたいところだけ言うのに、こちらが噛み砕いて説明しないと、「なんでなんで」と一歩も譲ってくれないのだ。

「俺は、危機に陥った時の、本能的な行動だと思う。つまり、命を守れ、っていう信号に従う。だからそこに、他のことを考える余地はないわけだ。」
「うん。そっか。そう、だよな。さっすが東方、頭がいいよな。うーん。わかった。」
それだけ言うと、南はバタンと図鑑を閉じて、その上に顔を乗せてしまった。
正直東方は、その生物を凝視するにはあまり耐性がなく、もうそのページは見る必要もなかったから、南の行動に逐一目くじらを立てる理由も見つからない。
お互い、言いたいことだけ言うのも似ていた。
思いつきと熟考の末という、プロセスは百八十度違っているにも関わらず。

寝てしまったのかと再びノートに目を落とした東方の右手首に、南の指が絡んできた。
「フツー、ここは親友の様子を察して、優しい声の一つでもかけてやるところじゃねぇの?東方って、最後で何考えてるか、掴めなくなる。スルって手から抜け出るんだよなー。」
「あー、ハイハイ。俺には『そっとしといて。』ってサインに見えたんですが?」
わざとらしく頭を撫でると、南はあからさまにふて腐れた。
ここで東方がもう一押ししないのは、自分をネタにされた冗談へ耐性のない南への配慮。
そんなことは別に、自分だけがわかっていればいいと思っていたから、半分は照れ隠しに近かった。

「おまえまで、俺のことバカにして!」
拗ねる時にまで声を潜める南の律儀さに心の中で噴き出しかけたが、もう一度言葉を思い返し、東方も声を潜めた。
「までって?部活で何か言われたのか?」
今日の練習を振り返っても、特に南が落ち込んでいた様子もなく、おおよそだが南が何をしていたかそらで言える自分に気付いてしまい、東方は頭を抱えた。
「東方んちは妹だから、俺の立場にはならないかも。」
「じゃあ、弟のことか?」
「うん。あのさ。」
異性間で共有せずに、同性間で共有する悩み。
上唇を指でつまみながら、南は続きを言うのをためらっている。
「もしかして、貸し借りするもの、か?」
「それは、兄弟によるのかも。…あーやっぱり、俺はダメ兄貴かもしれない。」
「そんなことないんじゃないか。そういうこと話せた方が、男同士の絆は深まると思うぞ。」
なるべく南を刺激しないよう、ことを穏便に、しかし核心に近付けるべく、東方は言葉を選んで述べたつもりだった。

「え、そういうの、恥ずかしいんだよ、血が繋がってる方が。」
南はひっきりなしに前髪をいじったり、鼻の頭をかいている。
「ニキビが悪化するぞ。」
「お兄ちゃん、冷静になられると、より照れくせーんですけど。」
すんなり東方の言うことを聞くと、今度は両膝の上に手を乗せて俯いてしまった。
「じゃあ、俺が貸してやるから。遠慮するなよ、誰にも言わないから。」
ここはこちらが意識しては相手も打ち明け辛いだろうと、努めて無意識を装った東方の堤防を、南の無意識があっさりと乗り越える。
「うーんでも、東方のはデカいし、そもそも趣味が俺と合うかどうか。」
「まぁ、なんだ。デリケートな問題だし、無理には勧めないが。あ、隠し場所変えた方がいいとは思うぞ。」
「そうなんだよなぁ〜。あーもう、なんで風呂場でこっそり洗濯しなかったんだろ。」
「それは切実な問題だな。こっちが恥ずかしくなる。」
友人が一人悲しく背中を丸めながら証拠を隠す赤裸々なその姿は、東方にはあまりにも想像しがたかった。

「え、どうして?」
「え、どうしてって?」
「俺は、この間弟と買い物出掛けた時にかっこいいTシャツがあって、それアイツもすげぇ気に入ってたんだけど、高くてさ。でもどうしても欲しかったから後でこっそり貯金崩して買ったんだ。それをうっかり風呂入る前に洗濯物ん中に入れちゃったから、次入ったアイツに見つかっちゃってさ。」
真相を喋り出す南の目はもう、次の疑問符の標的を捕らえていた。
「うん…?」
「こそこそ隠れて着ようっていう、考え自体が恥ずかしくなったんだ。だから兄の威厳を守る為に思わず、『おまえのために馴染ませといてやったんだ。やる。』とかもう、おかしい理由をつけて譲ってやった。でもそっか、俺が今度借りたらいいんだよな。やっぱりあの値段は痛いけど。で、東方は?」

どうやら、しっぽを掴まれたのは東方らしかった。
南のお兄ちゃんとしての威厳と、自分の親友としての尊厳。
絆が深まると言った手前、ここで切って逃げるかどうか。

「なぁ、どうしてだ?」
決断の時は、本能に従うしかないのかもしれない。

「まぁ、とりあえず、宿題続けるか。あとでそんなかっこいいお兄ちゃんにジュース奢るから、南は何がいい?」
「あ、俺、コーラ!」
無邪気に笑う南には上機嫌で振られる犬の尻尾が見えて、東方の中では、そういう年頃だという開き直りと悪戯心が勝ってしまった。
追いかけっこが楽しくて。


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