001 夕日差す昇降口にて
ここで赤澤を待つ数分間。
それが金田にはとても贅沢な行為だった。
学年が違う二人の下駄箱は、間にいくつものそれを隔てていて、人気がない昇降口には、赤澤が靴を指定の場所からタイル張りの床に放り投げる音が響く。
本来シングルス専門である赤澤とダブルスを組むことが決まってから、自然と一緒にいる時間が増えた。
練習中は元より、その後も部室で観月から指示されたメニューの確認をしあったりするうちに、金田は赤澤と途中駅まで二人で下校するようになっていた。
金田のパートナーである前に部長である赤澤は、諸雑用も抱えていて、本日のようにスクール組と行動を別にする日は、部誌とは別に、引継ぎも兼ねて分厚いバインダーを開いては、あらかじめ項目をプリントされた用紙に細々と何かを書き込んでいる。
観月に指定された、データファイルと記されたそれを前に、「めんどくせぇな。」とぼやきながらも、けして飛ばすことをしない赤澤の横顔を、金田は見つめるのが好きだった。
始めのうちは、「先に帰っていいぞ。」と、金田を気遣った赤澤だったが、いつの日からか、練習内容を思い出すのにも記憶力のいい後輩の存在は必要不可欠になり、こうして今日もまた、部誌を提出しに職員室に寄っている彼を、金田は待っていた。

毎日同じようなことの繰り返しに見えて、日の沈む早さや吹き付ける風の匂いは少しずつ変わっている。
夏が近付き昼間が長いこの頃でも、太陽が西の空へと傾き地平線へ姿を消すのは一瞬で、二人が家路を急ぐのも、大抵その時間帯だった。
「よお、待たせたな。帰ろうぜ。」
「はい。」
ガラス扉を開けると石畳が敷き詰められたポーチがあり、金田はいつもそこで赤澤を待っていた。
ここから赤澤と交わされるのは、互いの食卓に今晩何が乗るであろうか、とか、最近見ているテレビ番組や野球のことなど、他愛のない話題ばかりであった。
反省会は部室まで、と赤澤は口に出しはしなかったが、ともすれば失敗を悔やんでしまう金田にとって、その心配りは嬉しかった。
赤澤を見ていると、ここでくよくよ悩んでるよりも、明日の練習で結果を出せばいいのだと、そう気持ちを切り替えることができた。
テニス以外は何のつながりもない赤澤の、素顔を見ることができるのはこのひとときだけで、金田の頭の中には、彼の言ったことひとつひとつが、何一つ零すことなく記憶されていく。

「でよー、その時、兄貴が」
「どうしたんですか?」
突然口をつぐむと、赤澤の黒目がぐるりと一周して上を向いてしまった。
「別にこの後おもしれぇオチがあるわけじゃねえぞ?」
「あ、はい。部長のこと、色々知りたいなぁって思ってるだけです!」
「おう。そうか。」
それだけ言うと、金田の頭を大きな手が包んでガシガシと掻き回す。

最初のうちは何か少しでもテニスに繋がるヒントがあるのかもしれないと、耳をそばだてていた金田だった。
暮れなずむ校庭を背に、こちらを見据えてくる赤澤に、瞬きをするのも忘れて焦点を合わせていた。
左手で無造作に払った襟足から覗いた耳朶が、キラキラと透けた髪を照らしている夕陽のように染まり、そこで初めて、金田は自分が言ったことの恥ずかしさに気付く。
「あ、赤澤部長の、テニスに対する姿勢とかを、ですよ!」
一気に吹き出る汗が金田の首筋を伝った。

鋭い視線と低い声を受け止めるのは、一つ年上で尊敬する相手というのを足すと、思った以上に緊張して、要らぬ力が入ってしまう。
そんな時に、赤澤の何気ない話は温かい湯船に浸かるように、じわじわと身体に染み込んで、解してくれる、そんな風に金田は受け止めていた。
赤澤だけに限らず観月や木更津など、一見とっつき辛い先輩達も、打ち解けていくうちにそれぞれの形で自分達後輩を見守ってくれているということは金田も感じている。
赤澤に関しては、今回のダブルス抜擢がきっかけでその距離が一気に縮まったように錯覚しているだけで、彼と話している時だけなかなか熱が引かないのも、そのせいだと言い聞かせた。

「それ、言ったおまえが照れてどうする!金田!」
「わー、スイマセン!」
拳を額に突きつけられて、両手でそれを庇って、ふざけあっているうちに共有する高揚。
コートでは厳しい赤澤の顔が綻ぶ、それだけで金田の胸はいっそう高鳴ってしまう。
今鏡で顔を見たら、夕方のせいにできるぐらいの火照りで済んでいるのだろうか。
それを警告するように、シャツの中を風が通り抜けて膨らんだが、すぐにしぼんだ。

「ふう、もうこんな時間か。一日早いなー。」
鮮やかな朱色から、くすんだ紅色へと変わっていく空を見上げながら、赤澤は捲くっていたシャツの袖を元に戻していく。
「昔はとっくに家に帰ってた時間ですよね。もうちょっと遊びたいな〜って思ってましたよ。」
「次の日また会えんのにな。金田はちゃんと時間守ってたんだろ?俺は約束ぶっちぎって、よくゲンコツ喰らってたっけな。悔しいから絶対親の前じゃ泣かなかったけどな!」
あっけらかんと笑う赤澤につられて、金田も伸びをする。
「あはは。でもよく昔、原因わからないことで泣いたりしてましたよ、お風呂に入って一人で。なんだったんだろう?」
「ほんとに、昔のことか、それ?なんてな。」
答えに詰まる質問をしたのは赤澤の方なのに、その横顔はどこか陰を落としている。

夏が近付き、昼間の時間が長くなろうとも、テニスの練習をできる時間は限られている。
三年生にとって、試合に負ければそこで目標は消え、あとは引退を待つのみだ。
ましてや部長である赤澤は、背負うものも人一倍。
傍にいながら何をしていいのかわからない金田は、彼についていくのがやっとだった。
今でも悔しいのと、よくわからない感情で涙を堪える夜がある。
原因不明の苛々と焦燥感。
巡る季節を越えても、変わらずにずっと付き纏ってくるもの。

寂しいと、素直に泣けた小さな頃を手放したのは、時は止まってくれないと知ったから。
一日が終わった安堵感より、終わってしまうと惜しむ感情が勝る。
それでもあの頃と違うのは、何をすればいいのか、わかっているということ。

地面に長く伸びた赤澤の影は、いつまでも追い越せそうになく、うつろう日々とその背中は、今日もまた、捕まえる前に夕闇に溶けていった。

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