始まり
真新しい制服は、背が伸びてもいいように大きめで、ブレザーの袖口から 見えるシャツの袖も、真っ白。
期待に胸を膨らませつつ、一方では始まったばかりの寮生活に慣れない不安からか、どの新入生にも緊張の面持ちが窺える。
襟元のネクタイはきゅっと形よく結ばれていて、そういえば自分も一年前は、実家の洗面所の鏡の前で、父親から教わった締め方を忘れないよう練習していたっけ、などと赤澤は思いを馳せる。

本日から新入生の体験入部が始まる、ということで、赤澤の属するテニス部のコートの周りにも、徐々に体験希望者が集まり始めていた。
いかにもテニスをしていますといったバッグを担いだ者や、クラスメイトと興味半分で覗きにきたであろう者。

そんな彼らを横目に、聖ルドルフのユニフォームに身を包んだ赤澤はコート の中央部へと向かう。
4月が始まったばかりだというのに、半袖で襟元もだらしなく開けた姿に、 早速チームメイトから冷やかしの声がかかる。
軽く受け答えをしつつ、ベンチに腰掛けると、決して太くはないのだが、筋肉のついたしなやかな腕から、髪の毛をまとめるゴムを外す。
何となく伸ばしっぱなしの髪の毛が、春風にあおられて空を舞う。
暖かくなってきたとはいえ、突然吹くそれは、まだ冷たさを残していて、 軽く身震いをする。
それでも上から長袖のジャージを被らないのは、つまらない意地でも、一つ先の季節が恋しいからでもなくて、赤澤なりの気合の入れ方なのだ。

一年前は、赤澤も新しい世界へ飛び込むのに、多少なりとも勇気と決意を 持ってこの場所へやってきた。
その時一歩を踏み出せたのは、上級生のテニスへの真摯な姿があったからに他ならない。
口で頑張れと言われても、もう存分練習に励んでいる者にとっては、時と して重荷になって しまうもの。
言葉よりも態度で示す、その姿勢は普段から口先だけでうまいことをいう人間を、あまり好まない赤澤にとっては、何よりも鑑となったのだから。

自分の背中を見て、新しい後輩達も同じことを思ってくれれば、それ以上 幸せなことはない。
なんて大きな口を叩く決心は、まだ固まりかけだけれど、少なくとも後輩ができるということは、自分以外の誰かに、良かれ悪かれ影響を与えるということだろう。
昨日珍しく眠れなくて、カーテンの隙間から漏れた青白い月明かりが差し 込むベッドで、赤澤はぼんやりとそんなことを考えた。
まだ、たった一年しか経験を積んでいないが、下級生から見れば、赤澤もそうであったように、一年も先を行く存在なのだ。

口に髪ゴムをくわえると、下を向いて手ぐしで両サイドの髪をざっと集め、 さて結ぼうかと顔を上げた赤澤の視界に、一人の少年が飛び込んでくる。
赤澤から見て、四方を取り囲むフェンスの前方に、コートを挟んで他の新入生達が集合していて、彼はそこから離れただ一人、右側のフェンス沿いにある桜並木の、とりわけ咲き誇る大木にもたれ、手にした何かとコートの間を、 せわしなく視線が行き来していた。
正面の入り口では間もなく、部長が希望者を集めて、練習方針や活動内容など、色々と説明を始める頃である。
それだけなら、赤澤もさほど気には止めないが、彼の頭上から舞い散る薄紅色の花びらと、ピンと張った背筋と、真っ直ぐな視線が、夜中瞼の裏で描いていた、一年前の自分と、ふと重なった気がして。
気が付くと立ち上がって、フェンスを掴んでいた。

「おまえ、一年生か?」
ガシャン、と揺れる金属音に驚いたのか、肩をすくませて彼が赤澤を見上げる。
よく見ると手にしているものは、入部届のようだ。
「は…はい。」
突然話し掛けられて、その上赤澤の、およそこの学校には似つかわしくない、浅黒い肌に好きに伸ばした髪の毛、その気はないのに睨んでいるのかと思われるような切れ長の目、といった風貌に、少年の透き通った瞳が宙を彷徨っている。
萎縮しているのは、赤澤にも手にとるようにわかった。

「入部するなら、正面回った方がいいぜ。もうすぐ部長の話が始まるし、それにおまえ、迷ってるわけでもないんだろ?」
「あ…はい!でも、どうして…?」
おどおどした、今にも裏返りそうな声音。
真っ白い紙を握り締める手は、震えているようだった。
「おいおい、それ今から出すんだろう?」
「あ!はい…すみません。」
「別に謝ることじゃねぇだろ。変な奴だなぁ。」
思わず苦笑いすると、ふっと緩んだ赤澤の目に相手も多少は安心したのか、 えへへと照れ笑いを浮かべる。

「なんか、今日ここから僕のテニスがスタートするんだなって思ったら、緊張しちゃって…。」
傍で見ても先ほどの印象とは変わらない、一直線で、遠くまで見渡せそうな 目と、意志が強そうなのか困っているのかわからない眉毛。
こちらに敵意はないとわかると、途端に警戒心を解くその様子は、そういえばうちの犬に似てるなぁ、などと思いながら、赤澤は遠慮なく金田の姿を上から下まで見回した。

「最初は誰だってそうだろ。」
「え、先輩もそうだったんですか?」
「…何だよその顔は!」
「あ、す…すいません!!」
赤澤がわざと声を荒げると、途端に声を引きつらせる。
わかりやすい反応に今度はぷっ、と噴き出してしまう。

「冗談だよ。俺は赤澤吉朗だ。おまえは?」
「は、はいっ。金田一郎です!よろしくお願いします、赤澤先輩!」
背中をしゃんと伸ばすと、深々とお辞儀をする金田。

「おまえ、元気だな。明日からは一緒にこっちでやろうぜ、金田。」
「はい!」
親指でくい、っとコートを指すと、高揚したのか金田の顔にぱぁっと 朱色がかかる。
地面に積もった桜の花びらよりも、さらに色味を増した頬。

「おい金田、部長が来たから急げ!」
「はいっ!あ、赤澤先輩、どうもありがとうございました!!」

こちらをニ、三度振り返りながら頭を下げると、金田は一目散に駆けて行く。
制服の中で泳ぐ、まだ頼りない細い身体や首筋を見送りながら、赤澤の口元 にも自然と笑みが零れた。

あいつだったらこの学校や部活に慣れても、自分なりの制服の着こなしなんかしないで、きっとあのままなんだろう。
会ったばかりの人間に対して、根拠はないが確信を持ちながら、赤澤は口元に張り付いた髪の毛一筋と、花びらを指先で摘む。
はらはらと風に舞うその行方を一瞥すると赤澤も、ベンチの傍らにあったラケットを手にして歩き出した。

二人がダブルスを組み、金田が赤澤の背中を追うようになるのは、まだ遠い 未来。
それでも確かに、この場所が二人の始まり。


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