もういない? |
「祭りに行くから、明日俺の家に来い。」 赤澤からかかってきた電話は、それだけ伝えると一方的に切れた。 窓から茜色に暮れて行く街並みを眺める。 目的の駅に電車が止まると、金田はドアが開ききる前に飛び出した。 「よぉ。」 言い出した本人は、金田が来ることを当たり前だと思っていたらしく、実に いつもの調子で出迎えた。 「こら吉朗、せめてシャツぐらい着なさい。ごめんなさいね、金田くん。さぁ、上がって。」 「いいだろ、別に。金田なんだし。」 母親がバスタオルを赤澤の頭にバサッとかぶせると、口答えをしつつもガシガシと雑にそれで水を拭っている。 彼も部活を離れると、部長ではなく一人の中学生。 パンツ一枚の赤澤など部活の時に毎日見ている金田だったが、思わず笑いそうになる。 「お邪魔します。」 深々とお辞儀をすると、赤澤家に上がり、靴を揃える。 「金田くんはいつ来ても礼儀正しいわねぇ。吉朗は誰に似たんだかあの通り大雑把だから…。」 「おい金田!早く上がって来い。」 2階から、怒ったような困ったような声が聞こえてきて、金田はふき出さないようこらえる。 「はい、部長!」 すかさず返事をすると、一礼して階段に足をかけふと振り返る。 「赤澤部長も礼儀正しいですよ。」 「金田くんにそう言ってもらえて嬉しいわ。」 水滴の道標を見つめる母親の眼差しは、赤澤そっくりで優しかった。 赤澤の部屋に入ると、壁に浴衣がかけてあった。 藍色の地のものと、一回り小さい白地に紺で模様が入ったもの。 「あ、部長これ着るんですか?」 「おう、俺もな。」 扇風機を床に置いたまま引き寄せると、その前で無造作に髪の毛を乾かしながら、赤澤は至って当然だ、といった口調で答えた。 「『も』って何ですか?」 風になびく赤澤の髪に金田が見惚れていると、母親がスイカを持って上がってきた。 「はい、どうぞ。吉朗、これ食べたら呼んでちょうだいね。あ、わかってるとは思うけど…。」 「食い終わったら手ぇ洗え、だろ?まったく観月みたいなことを…。」 言いながらも既にかぶりついている赤澤。 思わず目が合った母親と金田は、ふ、とどちらともなく笑いを洩らす。 「金田くんには、ちょっと大きいかも知れないけど、まぁ、丈はどうにかできるしね。じゃあ、ごゆっくり。」 「あ、はい。いただきます。」 お辞儀をすると、金田は赤澤の方へ向き直った。 「あの部長、俺も着るんですか?」 「他に誰がいるんだよ。あれ、俺が小学校の時に着てたやつ。俺も兄貴のお下がりなんだけどな。」 「…部長って小学校で160以上あったんですか?」 金田は思わずスイカを皿に戻すと、俯いた。 「まぁな。成長痛っての?夜中に膝が痛くてな。メキメキ音すんだぜ。」 「え?音ですか!?」 「なんて冗談に決まってるだろ。まぁ伸びる時期なんて人それぞれだしさ、おまえはこれからだよ!」 視線を落とした理由を読み違えて、それでも弾かれたように顔を上げた自分に屈託なく笑いかけるその人に、金田も弱々しく笑い返すしかなかった。 窓際に飾られた風鈴が揺れ、チリン、と鳴った。 「ほー…。」 石造りの階段に足をかけた赤澤は振り返ると、三段ほど下にいる金田を覗き込んだ。 辺りは日が落ち、繁みからは始まったばかりの夏を生き急いでいるような蝉の鳴き声。 金田の視線はつい下駄の鼻緒に向かってしまう。 「…赤澤部長?」 「去年来た時、金田浴衣を着たがってただろ?そんなことより腹減ったぜ。行くぞ金田。」 紺地の背中。日焼けした肌。 すぐ暗闇に、人込みに、紛れてしまいそうなのに、くっきりと浮かび上がって頭から離れてくれない。 どうして、と問い掛けそうになり、金田は慌てて赤澤を追い掛けた。 階段を昇りきると、うっそうとした森に囲まれた神社があり、そこへ続く境内は、沢山の夜店で賑わっていた。 鳥居を潜り抜けると、身の引き締まる思いがする。 制服のシャツや、テニスのユニフォームとは違う、パリッとした感触に、浴衣の背筋が伸びた。 金田の少し前を歩く赤澤は、重くなりがちな濃い色の浴衣を長身でさらりと着こなしている。 洗い髪をゆるくまとめた横顔は、知らない人のようで大人っぽく見えた。 「お、金田!やっぱりタコ焼きは欠かせないよな?お好み焼きも捨て難い…。かき氷はブルーハワイだよな!」 目移りしながら次から次へと屋台を物色するその人は、金田の知っている赤澤そのままで。 「部長、お腹壊さないで下さいね。」 「何のために夕飯抜いてきたと思ったんだよ?まったく金田は心配症だよな…。」 口ぶりとは裏腹に穏やかな瞳に捕らえられて、金田は息を呑んだ。 去年もこうして、金田は赤澤とこの場所を訪れた。 まだダブルスを組んでいなかった1年生の金田がどうして誘われたのか、偶然その日話し掛けたのが後輩の彼だっただけかもしれない。 それでも憧れの赤澤に誘われたのが嬉しくて、金田ははしゃいだ。 2年生ながらシングルスで強豪青学の3年を倒したその勇姿を、基礎練習に明け暮れていた金田はフェンスの外から目で追い掛けた。 ちょうど世代交代で、赤澤が新部長の座を譲り受けたのもその頃だった。 金田は呼び慣れない「部長」という名前を何度も口にした。 ただテニスの話ができるだけで、何を食べても見ても楽しくて、時が経つのも忘れて一緒にはしゃいだ。 部活中は厳しい顔付きも、出店の灯りに照らされたそれは、たった一つ上なだけなのだと金田に親近感を与えた。 グイ、と力強く手を引かれて、大き目の下駄が石畳で躓きそうになり我に返る。 「おい金田、何してんだ?こっち行くぞ。」 一瞬で解かれたそこが、昼間より幾分涼しくなった風に吹かれ冷まされていく。 金田は今が夜でよかった、と深く息を吐いた。 通りすがりに買った飲食物を抱えて、赤澤に導かれるまま神社の奥へと進んで行く。 賽銭箱の前の階段に腰掛けると、赤澤は焼きとうもろこしを頬張りながら呟いた。 「ここでお祈りしていこうぜ。コンソレ勝てるように。こうなったら何の神様だって構わねぇだろ?」 金田の頭を叩くと、赤澤は笑ってみせた。 それは練習中に毎日、太陽の下で金田の目に焼き付いたもの。 月夜に照らされた横顔は、それでもやはり、手を伸ばすことも叶わないものに見えた。 赤澤の隣りで金田は「コンソレの勝利」と「少しでも長く部長とテニスができること」を祈り、手を叩いた。 「やけに長かったな。」と訊かれて、「部長のお腹の健康を祈っていたんですよ!」と、 ありったけの笑顔を返しながら、今はすぐそこにある後ろ姿を、一年前と同じ気持ちでは見られなかった。 道を引き返す途中、金田の目に留まったのは、水の中を泳ぎ回る紅い群れ。それを察して、赤澤も足を止める。 「なんだ金田、金魚すくいか?」 うちわを扇ぎながら、珍しそうな目で首を伸ばす。 「いえきっと、この場の雰囲気に飲まれているだけですよね…あんまり長生き、しなそうですし…。」 小声で呟きながら金田がその場を去ろうとすると、赤澤は座り込んで手招きする。 「よーし金田、どっちがすくえるか競争だ!」 浴衣の袖を豪快にまくると、いきいきと目を輝かさせている赤澤の勢いに押されて、金田もしゃがみ込んだ。 「俺はさー、何でもやってみなきゃわからねぇと思うぞ?金田が自分から興味持ったものなんだし。やらないで後悔するのは性に合わないっていうか。」 綺麗な魚を追いかけながらそう話す赤澤の言葉は、自分を励ましてくれるものだとわかるから余計、金田の胸に深く突き刺さった。 「ただ嬉しくて、一緒にいられた去年の夏の自分はもういないけれども、せめて来年もここに一緒に来られますように。」 一番願いたかったことが浮かんできて、鼻の奥がツーンとなった。 すくい上げた金魚が跳ね落ちて、水面が揺れる。 赤澤がくれた金魚は今も元気で、金田は餌をやりながら時々、夜風になびく赤澤の後れ毛を思い出している。 |