朝のできごと |
いつもと同じ朝。携帯のアラーム音も、窓から差し込む光も。 冬の訪れが近づいて、布団の中の温もりと、部屋のひんやりとした空気の差にまだ身体は慣れていないけれど、徐々に意識がはっきりとしていく。 「赤澤部長…時間ですよ〜。」 きのうもコンビニで買い込んだ新製品の菓子やらカップ麺やらが入った袋を下げてやってきた赤澤は、夕食後金田の部屋に入り浸り、勝手知ったる家とばかりに室内の風呂に湯を溜め始めた。 一緒に入ろうという誘いを丁重に断り、全く能率の上がらない予習のポーズだけとって机に向かっていると、ノートの上にポツポツと雨が落ちてきた。 「金田〜服貸せ。」 見上げると髪もろくに拭かない赤澤が、下着1枚だけの姿で覗きこんでいた。 「おまえは真面目だなぁ。」 感心、といった感じで目を細めて、金田の頭をクシャクシャと撫でる。 赤澤は高等部への進学を決意し、、外部受験はしないらしいが、金田は未だかつて彼が勉強している姿を目にしたことがなかった。 とりあえずまた一緒に部活をできる希望が持てたわけだが、両親に『テニスと勉強の両立』を厳しく言われてきた金田にとって、赤澤家はなんて放任主義な家庭なんだろうと、内心うらやましかったりする。 赤澤が金田の敬語づかいや年上への接し方に感心するように、金田もまた赤澤の型にはまらない考え方や行動力が憧れなのだ。 春になれば赤澤は3年、全国大会への予選で負けた時点で引退する身。 今の金田の原動力になっているのは、また赤澤を『赤澤部長』と呼ぶ日がやってくるのを夢見ることだけなのだから。 「ちゃんと頭拭かないと風邪引いちゃいますよ!」 慌てて立ち上がると赤澤の肩にかっかったタオルで、優しく髪を拭く金田。 「なんか金田って奥さんみたいだなぁ〜。ぷっ。」 赤澤の例えに金田の心拍数が一気に跳ね上がる。 くったくなく笑う赤澤に罪の意識はまるでないのだけれど、こんな時金田は心底惚れた相手を恨まずにはいられなくなる。 今まで赤澤の何気ない一言に、幾度一喜一憂させられてきたのだろう。 普段は硬くてあちこちにはねている髪が、水分を含んで艶やかに濡れていて、褐色の肌も朱色に染まっていて、何度見ても金田には目の毒だった。 「…『後は自分で拭いて下さいね、アナタ。』…とかでいいんですか?」 重ねられた赤澤の大きい手がくすぐったくて、服を出すふりをしてその場を離れる。 「おまえと結婚する奴は幸せだろうなぁ。いいよなぁ〜マメで。浮気絶対しなそうだもんな。」 目の前の男が、いっそできるなら自分をめとりたいなどと考えていることは露知らず、赤澤はモゾモゾと金田の布団に潜り込んだ。 「…赤澤部長は、マメな人と結婚したいんですか?」 気を取り直して赤澤に服を渡すと、急いで椅子に座り、背を向ける。 「俺だったら金田と結婚するなぁ〜。」 「へ!?」 赤澤の衝撃の一言で、床にシャーペンが転げ落ちる。 「あ!違うぞっ!!『俺が女だったら』だぞっ!」 枕を抱えて、金田から見るとまるで上目遣いのような視線で慌てて付け足すその姿に、誘惑されているような錯覚に陥る。 「あはは…ですよねぇ。…光栄です。金田一郎と吉朗で、いい感じですよね…。」 ここ一週間ほど赤澤が泊まりに来たおかげで、慢性の寝不足状態の金田は、最早思考回路もショート寸前だった。 しかも部活から帰るとずっと赤澤がいるわけで、お年頃の金田、色々困ることがあったりするのである。 はっきり言うと目の前に生身の好きな人がいるのに、どうこうできないもどかしさで出すべきものも溜まる一方なのだ。 「今の棒読みだったぞ。」 赤澤はふて腐れると壁際の方を向いてしまった。 「あのっ…先輩?」 「…冗談。」 「…ですよね。」 こういう時は何を言っても仕方ないので、金田は今までの悪夢を吹っ切るために、予習を再開した。 間違って赤澤の寝息などを聞いてしまったら、あらぬ妄想が広がるばかりなので、ヘッドフォンをして音楽を聴きながら集中を図った。 今夜もろくに眠れないなぁ…と思いつつ、明日は週末、確か赤澤は自宅に戻ると聞いたので、いない隙に寝だめすればいいかと開き直ったら集中力が増した。 気分が乗ってきて鼻歌交じりに勉強をしていると、突然ヘッドフォンを取り上げられた。 「寂しい先輩を放っといて、何歌ってんだーっ!」 後ろから突然抱きつかれて、金田は困惑した。 勝手に先に寝たのは赤澤の方であって、その後金田が何をしていようと文句を言われる筋合いはない。 「あ…赤澤部長、うるさかったですか?」 「早く寝ろ。」 肩に頭を乗せられて、耳元で優しく低音で囁かれて、金田は混乱した。 「すっ、すみません!!」 赤澤に命令されると、条件反射で謝ってしまうのは部活で染み付いた癖なのだが、緊張で萎縮した金田の両脇に手を入れると、赤澤は強引に椅子から立ち上がらせた。 「早く風呂入ってこい。明日俺んち連れてってやるから。」 「先輩のお宅ですか!?」 「明日用事あんのか?」 「いえ…でも急ですね。」 赤澤が金田の実家に来たことは何度もあるが、金田が赤澤家を訪ねたことは数える程しかなかったので戸惑っていると。 「ここじゃ人目っていうか、誰がどこで聞いてるかわかんねぇしな。明日はうち、誰もいねぇから。」 「へ!?」 「相談乗ってやるって言ってんだよ。毎晩『赤澤部長…』って泣きそうな声で寝言言ってるから。何かここんとこ元気ねぇからよ、部活で困ったことでもあんのかなって。…余計なお世話かもしれねぇけどな。」 照れ臭そうに言うと、金田の頭をポンポンと叩く赤澤。 「赤澤部長…。」 本当の悩みは相談できなくても、赤澤がそこまで自分を気にしていてくれたことに、金田が感動して目を潤ませていると、「俺って優しいなぁ〜…。」などと赤澤が呟く声が耳に入る。 「あ、どうもありがとうございます!!」 相談相手が悩みの種だ、なんて言えるわけはないのだが、催促されたのでとりあえず感謝の意を表してみると、 「って金田の作ったカレー目当てなんだけどよ。ま、明日な。」 そう言ってごまかす赤澤も、金田には愛しいのだから勝ち目がない。 「はい…自分でよければ!」 「そうと決まったら早く風呂!」 金田の背中を押す赤澤。 猛スピードで風呂から出ると、赤澤はベッドでくつろいで漫画を漁っていた。 「ほら、早く入れ。なぁ今週号って買ったか?」 「あ、不二に貸してるんですよ。」 本来金田はコミックス派だったのだが、赤澤が毎週読んでいるのを知って、週始めにいそいそとコンビニに通うようになってしまった。 勿論赤澤はそれから自分で買うことはなくなった。 金田としては貸し借りの時の、赤澤との会話も嬉しいので、全く気になっていなかった。 「くそ〜不二め!俺の金田を…。」 「えっ!!?」 「あ、『俺が真っ先に借りる金田の漫画を』だぞ!…」 思い切り否定する言葉に軽く眩暈を覚えた金田だったが、その後本人が「違う…俺が金田吉朗だから、『金田の俺』…?」などと真顔で呟き始めたので、そこで思考が停止してしまった。 「あ…赤澤部長、明日朝イチに不二に返して貰って、電車で読んで下さい。ねっ?」 「そうだな。やっぱり金田は優しいなぁ。」 赤澤はそう言うと、金田の腰に手を回して抱きついてきた。 挙句の果てには寒いから一緒に寝ろと毛布を広げて命令した。 「いえ、俺はこっちの布団で寝ますんで…。」 「おまえのベッドだろ。じゃ俺が床に寝るから。」 「いえっ、部長が寝て下さい。」 「俺の言うこと聞けないのか金田!」 「はい…お邪魔します。」 仲の良い先輩・後輩だったら何てことのない光景。 だが、金田にしてみたら息がかかりそうなほど近くで、憧れの人に無防備な姿をさらされるのは、拷問を意味する。 自分と同じシャンプーの香りが鼻先をかすめ、寝言とはいえ「金田ぁ…。」などと起きている姿からは想像できない、鼻にかかった甘ったれた声で囁かれたら、聞こえるのではないかというくらい鼓動が高鳴ってしまう。 初日に寝て懲りて以来、金田はこの部屋の住民にも関わらず、床に布団を敷いて寝ることを通し続けていたのだった。 「う…ん…あと5分だけ…。」 寝返りをうつと、赤澤は金田に抱きついてきた。 頬に髪の毛が触れてくすぐったいのを我慢して、金田はもう一度声をかける。 「赤澤先輩、外はいい天気ですよ。」 「おう。…そういや今日だっけ。悪い今起きる…金田あったけぇ〜。」 浅黒い肌からは想像がつかないが、体温が低いらしい赤澤の両手が、金田の手を包み込む。 寝ぼけまなこで自分の頬に金田の手を持っていく赤澤を微笑ましく思っているうちに、寝不足による疲れも吹っ飛んだ。 赤澤の家に行く途中の電車で、不二に返して貰った最新号を読み始めて早々と眠り始めたその人の頭を肩に感じながら、金田は久々の平和な朝を過ごしていた。 久々に、赤澤との関係に明るい兆しが見えた気がして。 いつもと同じ朝でも、金田にとっては新しい朝の始まり。 |