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年の瀬はいつも慌しくて、周りの人間も皆、どこか気もそぞろである。
それは金田家でも例外ではなくて、もうすぐやって来る新しい年に向け、今年もまた、長男一郎も大掃除に借り出されていた。
金田はそういうことで不平不満を言う子供ではなくて、寧ろ、日頃はテニスに明け暮れて家にいない分、喜々として手伝いをしていた。
リビングの窓ガラスを磨きながら、台所でおせち料理の準備に追われる母親の背中を眺めたり、椅子に乗って照明の笠の上を拭く父親を見上げたりする。
平日は学校で、週末も大会に練習試合にと家を空けることの多い金田にとって、家族の日常を垣間見るのは新鮮な気分であったし、また同時に、同じ空間に自分が存在することに、安らぎを覚えるのであった。
ただ、この日に自分が生を受けたことは、少なからずとも歓迎できることではなかった。



一週間ほど前の終業式で、観月達からは誕生日プレゼントを貰った。
「ちょっと早いですが、遅れるよりはいいかと思いましてね。」
部室に荷物を取りに行った時に、ほんのついでっぽく、手渡された包みを金田に押し付けると、「休みの日は気が緩みますから、風邪など引かないで下さいよ?」などと、前髪をくるくると巻きながら、相変わらずの口調でそう言って去って行く。
とっくにテニス部を引退した彼が偶然ここを通る可能性は極めて低い。
そんなことは金田でもわかるのだ。
そこが観月の良いところでもあって金田は小さくなって行く背中を見送りながら、ぐいと頭を下げた。
それから、帰りの廊下で柳沢と木更津と擦れ違って同じように祝福され、昇降口で野村にからかわれムキになっている裕太に苦笑いを浮かべていると、そんな二人が異口同音におめでとうを言うものだから、今度は照れ笑いで頭を掻いた。

校門までの道で、人より頭一個分飛び出した、自然に任せた外跳ねの後ろ髪を見かけて、金田は地面を踏み締めた。
昼間であっても吐き出される息は白く、肺に吸い込んだ空気は突き刺さるぐらいに冷たい。
「あ、赤澤ぶちょー!」
何とか自分よりもだいぶ歩幅のある赤澤に追いついた頃には、かじかんでいた指先や爪先、耳は温まっていて、吹き付けてくる風に晒され、そのあたり一体がむずむずと痒くなる。
「何だよ、金田部長。そんなに息切らして、さては俺が引退してから、身体鈍ってるんじゃねぇだろうなぁ!?」
「わ、す、すいませ…!」
振り向きざまに声を荒げられて、金田は一瞬ひるんだ。それでなくとも赤澤の声は低くて大きいので、少し強めに言われただけでも、金田の声は裏返ってしまうのだ。

肩をすくめながら、薄目を開くと同時に、首に巻いたマフラーが乱暴に鼻先まで押し上げられてきて、毛糸の感触と、得体の知れない鼓動で、金田の全身はまたむずむずする。
「冗談だ。冬休み中、風邪引くんじゃねぇぞ。」
たかが二週間ほど会えなくなる位で別れを惜しんだ金田をお見通しなのか、当たり前に受け入れているのか。
きっと答えはどちらでもなくて、そのことに胸を撫で下ろしつつも、どこかで無性にずるい、とさえ思う。
そして直後に、無性に自分に腹を立てる、その繰り返しだ。
でもそれ以上に、赤澤がくれる無償の優しさが、金田は何より好きだった。

結局帰り道は、家で食べるクリスマスケーキが、チョコレートも、赤澤曰く「木の幹をぶった切って断面が見えている」ブッシュ・ド・ノエルもいいが、やっぱり苺のに限る、だとか、スポンジの断面にも苺が見えるとなおさらいいだとか、でも冬は焼き芋だとか、そんな話をしながら、いつもと同じように手を振ったのを覚えている。
笑顔が強張ったり、鼻の奥がツンとしたのは全て、凍えそうな季節のせいにしながら。
赤澤が巻き直してくれたマフラーは、曲がり角でその背中が見えなくなってから、急速に冷たくなってしまった。



誕生日ケーキと年越し蕎麦が並ぶ食卓は、どこから見なくとも奇妙で、クリスマスと一緒にされないことはまだ、恵まれている方だろうと、金田は自分に言い聞かせた。
それでもやはり、今年の大晦日は、いつもより落ち着かない。
テレビを見ていても、早くも「あと何時間何分です。」と来年へのカウントダウンが始まっている。
金田にとっては、やっと新しい一年が始まる日だというのに、何もかも生まれ変わる日への足がかりにされては、ひどく落ち着かない気分になるのだ。
何よりもの記念日が、そこだけ一日ぽっかりと空白になって、置いて行かれてしまうような気分に。

「にいちゃん、ケーキ、おいしくないの?」
騒がしい番組をただボーっと眺めていると、隣りで弟が不安げに一郎を見上げてくる。
忙しい合間を縫って、母親と一緒にケーキ作りをしてくれた彼は、フォークが進まないそれを前に、肩を落とした。
「あ、違う違う!美味しいよ、すっごく!ありがとな?」
慌ててその頭をぐりぐりと撫でると、「ほんと?よかった〜!」と、無邪気な笑顔が返ってきて、そのことがまた、金田を責めた。
おざなりにされているのはむしろ、自分を愛してくれるこの人達ではないかということに、頭の片隅で気付き始めている。
その考えがまとまらないのはただ、こんな年末のお祭騒ぎの風潮のせいだと、どこかですり替えようとしている自分にも。

そのうちに弟は金田の膝の上で寝てしまい、普段夜更かしなどしない彼も、忘れた頃に襲ってくる睡魔と闘いながら、意地になって興味もない番組を見続けていた。
じっとしていても足早にすり抜けて行く一日だとしたら、自分で欲しいものは強請って掴むしかないのだということは、こんな日に生まれた金田だからこそ、痛いぐらいにわかっている。

金田は完全に寝入った吐息を確認するとそっと立ち上がり、弟を布団に寝かせてから、意を決して電話の子機を持ち、自分の部屋へと急いだ。
果たしてこんな夜分に何を言おうというのか、去年はあっちから誘ってくれたから、初詣だったら不自然ではないかというのが、金田なりの精一杯の理由だった。

そこから早まる心臓を落ち着けようとトイレに3回ほど行き、震えすぎて「人」だか「入」だかわからない字を人差し指で掌に撫でつけて、やっとの思いで子機を持ったものの、番号を最後まで押せずに切ってしまうこと数回。
かつては「ばか」呼ばわりまでした相手への意気地のなさに、布団に顔を埋め、手脚をじたばたさせては己の不甲斐なさを呪い、はっと枕元の時計を見やれば、間もなく短針と長針が重なる時間である。
何かにうなされるようにして呼び出し音を聞くと、受話器の向こうの赤澤の母親が、申し訳なさそうに不在を告げてきたことに、金田はどこかで安堵感を覚えていた。

手にしていた電話を放り投げると、知らぬ間にかいていた汗をズボンの上で拭いながら、金田はまたしても急速に熱が引いて行く感触に、虚しさを感じずにはいられなかった。
あの電話が通じたら、一体何を言おうとしていたのか。きっとまた、本音を言い出せないまま年が明けてしまい、本当に聞きたかった「おめでとう。」は、去年に置き去りのままになるだけだったのだと、金田は横になり、そんなことをぼんやりと考えた。
こんな考え、あの人には思いもよらないだろうな、とも。

「一郎、ちょっと下にいらっしゃーい。」
階下から母親の声がして、金田は重たい身体を引き摺ってノロノロと階段を降りて行く。
心より正直な足取りでは、そこを踏み外さないようにするのがやっとだった。
「よう。わりぃな、もう寝てたか?」
先ほどまで焦がれていた声がして、金田は耳を疑った。
弾かれるようにして頭を上げれば、玄関先に赤澤が立っていて、最後の二段ほどの着地を失敗する。
「え、ぶ…、赤澤先輩、何してるんですか?こんな時間にトレーニングか何かですか?」
一週間ほど前の自分と同じように息を切らして、頭から湯気さえ出ていそうな様子の赤澤に、金田は何が起きているのか全く持って見当がつかなかった。
ダウンコートを羽織って、タートルネックにマフラーに手袋と重装備な彼が、わざわざ金田の家までランニングするとは有り得ない話なのだが、それ以上に、金田にとっては、赤澤が目の前にいることの方が、まさしく夢みたいなことだった。

「おっと、気をつけろよ。やっぱりお子様だから、寝ぼけてるんだな?…あ。」
腕時計を眺めると、赤澤はため息をついた。
「おまえがごちゃごちゃ言ってるから、過ぎちまったじゃねぇか。ちっ…。」
「え?あ、すいませ…、あの、何が、ですか?」
「意味わかんねぇんだったら、謝るな!」
気が短い赤澤に舌打ちをされた上に、意味もわからなく怒られて、泣きたい気持ちになる。
こういうところは、観月が言っていた「部長でしたらもっと筋道立ててわかりやすいように喋りなさい。自分の中だけで納得させないこと。いいですね!?」に当たるのであろう。
金田は観月に変なところで同情を覚えた。
決して当人は喜ばないであろうが。

「……。」
石のように固まり黙りこくってしまった金田に眉を寄せると、赤澤は気を取り直したように呟いた。
「俺だけだろ?言ってなかったの。さっき風呂入ってて気付いたんだよ、おまえの誕生日。」
言われてみれば赤澤の髪の毛は湿っていて、金田は口をあんぐりと開けた。
「え、そんな、わざわざ…?」
「うるせぇな。他の奴らは全員おまえと面と向かって祝ったんだろ?俺だけ言わなかったら沽券に関わるからな。まったく…。」
そんなところで意地を張られても、後輩の目の前でこんな姿を晒しては、元も子もないのでは、と、喉元まで出かかって、息を呑んだ。

「忘れられない日になったぜ。」
こんな寒い真冬の夜に、汗を拭いながらそう笑い飛ばす目の前の人の紅く染まった耳に、金田はうっかり手を伸ばしかけて、止めた。
耳の奥までじんとするのは、赤澤を迎え入れた名残の、凍てつくような空気のせいだと自分に言い聞かせて。

「まぁ、まだ一年が続いているとして聞いてくれよ。金田、誕生日おめでとう!」
「ぶ、部長…!」
「だから、もう部長じゃねぇんだよ。まったく、しょうがねぇ奴だな。」

その笑顔を見つめ返しながら、向こうからやってきてしまった幸せに、どう上手く対処すればいいのかわからずに、それでももう少しだけ、「今年」が続きますようにと、金田は祈らずにはいられなかった。


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