今日の仕事
何かのコマーシャルのフレーズではないが、今年の汚れは年内に落とそう、それがどの家庭でも大抵大晦日ギリギリにまで猶予を与えられている。
金田も新年を迎える計画遂行の一員として、スポンジを片手に、素早くかつ丹念に、磨きをかけていた。
金田が配置されたのはここ浴室で、換気の為開けっ放しの小さな窓から吹き込む北風にくしゃみが出る。
それでも気を取り直してシャワーのコックを捻り、お湯で洗剤を洗い落とせば、爽快感からすぐに笑顔が戻った。
立ち昇る湯気で暖をとりながら、金田は鼻歌まじりに仕上げにかかった。
「にいちゃん、でんわだよー。はやくはやくー!」
勢いよくドアを開ける音に振り返れば、伝令係の弟がその場で駆け足のポーズをとっていた。
「うん?誰から?」
「あかざわのおにいちゃん。」
金田はやっとの思いでシャワーを止めて、慌しく風呂場を飛び出した。

「はぁ…あ、赤澤先輩、お待たせしました…っ。」
息を切らしながら電話をとれば、豪快な笑い声が耳をつんざいた。
「あはは、なーにそんなに慌ててんだ?」
我に返れば、足拭きマットを踏まずに跨いでしまたため、廊下に足跡がくっきりと残っている。
その道すがらを辿ってきた弟が、「にいちゃん、ちゃんとあしふかなきゃ、いけないんだー。」とズボンを掴んでくるので、その笑い声はもはや金田に拷問でしかなかった。
「情けねぇな、弟にまで注意されてやがる。可哀想だから、俺は叱らないでいてやるよ。」
「はぁ…ありがとうございます。」
「あと一時間ぐらいしたら、家出て俺んち来い。じゃあな!」
「はぁ…って、はぁー!?部長…っ。」
今度は通話の切れた音までもが、金田の間抜け振りを笑い飛ばす。
「にいちゃん、おかおまっかだよ。どうしたの?」
純粋無垢な、二つの小さい瞳で見上げられて、金田は恥ずかしさを押し込むように両手で受話器を戻すと、ため息をついた。

まだ金田に課せられた任務は残っていて、今自分以外が忙しい最中抜け出す方法を考える、という新たな使命が追加されてしまった。
もう一度大きくため息を零せば、後ろから声をかけられる。
「一郎、赤澤くん何だって?」
用も無いのに電話をよこすような人物ではないことは、母親もとっくにお見通しらしい。
「うん…家に来いって言われたんだ…でもやっぱり、ごめんなさいって断るよ。あ、ごめん、今そっち替わるから。」
雑巾で息子の尻拭いをしている彼女に、金田は頭を下げる。
「一郎、じゃあ私と一部交代してくれる?帰りがけに買い物してきてちょうだい。」
微笑む母親から雑巾を受け取ると、大きく何度も頷き返した。



言われたように律儀に一時間きっかり経った後、赤澤の家へ向かった金田だったが、玄関を一歩出て、何も忙しいのは自分達だけではないということに気付いてしまった。
案の定、赤澤邸の前では一家の主が洗車をしていて、本人に会う前にもう喉がからからに渇いてしまった。
「あ、あの、こんにちは。お忙しいところ、すみません。僕、赤澤先輩の後輩で、聖ルドルフ学院二年生テニス部の金田一郎と申します。」
「あぁ、金田くん。お久し振り。覚えてるよ。いつも吉朗がお世話になってるね。今鍵開いてるから、中入っちゃって。」
赤澤をさらに低くしたような声に緊張がピークに達した金田だったが、赤澤似の、正しくは赤澤が父親に似ているのだが、その目元が三日月をかたどると、何とか唾を呑みこむことができた。

「す、すいませーん、こんにちはー!お邪魔しまーす。」
許しを得ても、さすがに人様の家のドアを開けるのは気が引ける。
手を煩わせるのも申し訳ないと、言われた通りにしたまでだったが、奥から出てきた母親と目が合って、声が裏返りそうになる。
「あ、こんにちはっ、えっと、そこでお父様にお会いして…。」
「わ、金田くん!ご無沙汰してたわね、いらっしゃい。さぁさ、上がってちょうだい。吉朗―!金田くんいらしたわよ。」
金田が挨拶をして、スニーカーの踵を反対に向けていると、二階から赤澤の「あぁー。」という生返事が聞こえてきた。
「ごゆっくり。」と言う母親に会釈をしながら手すりに掴まりゆっくりと階段を上がれば、予感は的中する。
開け放たれたドアの向こう、頭にタオルを巻き、格好だけは気合の入った赤澤が座り込んでいて、金田に背を向けたまま「よぉ。」と迎え入れる。
床に散らばった漫画雑誌を這いつくばって一冊ずつ積み上げながら、金田は道程を確保しつつ前進する。
そっと脇から見上げると、待ち受けていたのは真剣に膝上の本に目を通す赤澤。

「…赤澤先輩こんにちは。あの、聞きたくないんですがまさか、俺このために呼ばれた…んで、すか…?」
「あ?俺がそんなことするわけねぇだろ!?計算では、おまえが着くまでに終わらせるはずだったんだけどよ。」
ちらっと金田に焦点を合わせると、赤澤はまた現実逃避をしようとする。
理不尽だ、と項垂れるも、金田は身に付けていたマフラーとコートを部屋の隅へ畳んで置き、パーカーの腕を捲り上げた。
「そんなことしてたら、あっという間に日が暮れちゃいますよ。」
窓ガラスの向こうで北風に揺れる枯葉を眺めながら、遅くならないうちに帰るというもうひとつの理由を思い出す。
それでも、自分で仕事を背負ってしまったからには、ここはやるしかないのだと腹を括り、タオルを外しかけた赤澤の手首を引き止めた。
「お、手伝ってくれるのか?わりぃな。」
全く反省の様子も無く、悪びれず笑う赤澤が、重い腰を上げただけでもよしとするかと、誤魔化すように肩を大きく回した。



雑然としていた部屋も、金田の「本当にそれ、要るんですか?」のひと言でなんとか、すっきりと整理整頓が終わった。要らないなら最初から捨てればいいのに、と合理的なことを好む金田は常々ここを訪れるたび、そして部室にあった赤澤のロッカーを目にして思っていたのだが、それだけでは割り切れないものも沢山あると教えてくれたのも赤澤その人に他ならず、何も言えなかった。

「はぁ〜、金田サンキュー!あと掃除機かければバッチリだ!すげー、床が見えるぜ。」
天井を仰いで赤澤は大の字になった。
いきなりその場でブリッジまで始め、顔と同じ位日焼けした、浅黒い腹部が覗いている。
「ぶちょ…赤澤先輩、お腹冷えますよー!」
「あ?へーきへーき!ふぅ…疲れたな。」
金田の気遣いなど、この健康優良児には必要ないのかもしれない。
「あ、何だこれ?お、こんなとこに落ちてたのか…。」
よりによってそのままの姿勢で上方向に進んで行くと、本棚と机の間の隙間に手を伸ばした。
いくら部で鍛えていたとはいえ、片腕で支えきるのには不十分で、赤澤は鈍い音を立てて背中から崩れ落ちた。
「だ、大丈夫ですか…?ゴンって音が。」
奇行にただただ呆気にとられていた金田は、我に返って赤澤に手を伸ばした。
「全然痛くねぇ!じゃあ俺、茶でも淹れて来るわ。」
差し伸べられた腕を払いながら立ち上がると、ジーンズの後ろポケットに何かを押し込む。
巻いていたタオルを頭から引っ張るように外し首にかけると、二、三度髪の毛をバサバサと横に振り、赤澤は一階に下りていった。
シャツを直しながらさりげなく殴打した箇所をさすっていて、後輩の前ではやせ我慢の先輩に、金田は一人きりの部屋でくすりと笑いを漏らした。



「よぉ、待たせたな!」
きちんと閉まっていなかったドアを蹴破るようにして赤澤が戻って来て、適当に漫画を読んでいた金田はコミックスを手から落としそうになった。
「こういう時は呼んで下さいよー。おうちの人に怒られないんですか?」
紅茶の入ったマグカップと、皿に盛られたケーキが二つずつ乗ったトレーで、赤澤の両手は塞がっている。
金田は慌てて立ち上がりドアを引いた。
「サンキュ。はは、もう諦めたんじゃないか?皆こんな感じだしよ。」
丁寧にゆっくり洗車していた父親の姿を思い描きながらも、縦社会のルールを身を持って知っている金田は「そうですか。」と相槌をうった。

「さ、これ食おうぜ。何かよ、明日親戚が来るとか言って、今日のうち買いに行かされたんだよな。でもよ、おせちとか色々あるだろ、料理。冷蔵庫に入りきらねぇんだよな、協力してくれないか?ついでにおまえ、誕生日だし。」
この部屋にテーブルなど洒落たものはなく、赤澤は辺りを見回すと、ベッドの上の掛け布団を足で追いやり、入り口にいる金田を手招きした。
現時点で一番綺麗なのがたまたまその場所というだけ、わかりきっていることなのにドアを閉めた音がやけに大きく響いて、金田は赤澤が言った肝心なことが頭から抜け落ちてしまった。

「ほら。早く座れよ!金田はこれな。一応主役だし。」
ゴクン、と喉を鳴らして指定された場所まで近付くと、手渡された皿を見て、もう一度喉が鳴る。
苺をふんだんに使用したタルトは、赤澤のチョコレートケーキより一回りほど大きい。
アルミのパーチを下げ、三角形の断面を覆う透明のフィルムをぺりぺりと剥いた赤澤は、やはり、というべきか迷いもなくそれを舌で舐めながら、空いた方の手で立ち尽くしている金田の腕を引っ張り座らせる。
「う…部長…。」
それでもまだ、両手で皿を持ったまま俯いている金田の声が涙混じりなのに気付いてか、赤澤はいきなり饒舌になった。

「結構このへんでは有名な店なんだぜ?おまえんちクリスマスはあのチビの好きなチョコケーキって言ってたろ?で、今日は絶対ショートケーキ。ときてなおかつ豪華に見えるのはだな…。」
「そんなに考えてくれたんですか、すいませんー…。」
鼻水をすすり始める金田に、ちっ、と舌打ちしながらも、気の短い元部長は、決してフォークを持とうとはしない。
「ばーか、泣くか食うかどっちかにしろ!それに金田、こういう時はすいませんじゃなくって…。」
「あ、ありがとうございます!」
ずい、と寄越されたティッシュで誤魔化すように赤くなった目元も拭うと、そこには赤澤のくしゃくしゃの笑顔が待ち受けていて、金田はその後少しよっぱいケーキをただ、無心で頬張った。
横を見れば自分と同じように、カレーでも平らげるような勢いでフークを動かすその人がいて、お揃いの照れ隠しにまた、俯いた。



「金田くん、今日はわざわざありがとうね。ほら吉朗も、ちゃんとお礼言いなさい!」
玄関先まで見送りにきてくれた母親は、欠伸をしている息子の頭をぐいっと押し下げた。
「いてぇなぁ…。ありがとうな、金田。」
後頭部をさすりながらぶっきらぼうに言うその姿は、普段はあまり見ることが出来なくて、これがきっと、赤澤の本来の姿なのだろう。
「いいえこちらこそ、大変な時にお邪魔しました。あ、あと、ケーキもご馳走様でした!」
深々とお辞儀すると、金田はしゃがみ込み、スニーカーの靴紐を結び直す。
「ケーキって、何のこと?吉朗。」
「うるせぇな、知らねぇよ!」
背後でのやりとりにまた、鼻の奥がツーンとなるのを、マフラーを引っ張り上げて隠した。
まともに顔が見れずにもう一度お礼を言ってドアノブに手をかければ、後ろからついでのように付け足される。
「金田、誕生日おめでとう!お年玉で今度何か奢れよな!」
「こら吉朗、後輩の子に何言うの!」
相変わらずのやりとりに泣き笑いの顔で頷き返せば、穏やかな微笑があって、駅までの上り坂の途中、刺さるような風は金田の火照った頬にいつになく心地良かった。



最後の使命を果たすべく、頼まれた買い物のメモが入っているはずの右ポケットに手を入れれば、チャリン、という鈴の音。
取り出したそれは、赤澤が部室の鍵につけていたキーホルダーで、金田は新に課せられた責任に身が引き締まる思いがした。
それを太陽にかざし、ぐっと握り締めると、急な勾配残り半分を駆け足でのぼり出した。


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