Happy Birthday
目の前に広がるのは色とりどりの旬のフルーツに、女性客の群れ。
ポケットの中で、二つ折りにされた封筒を何度も握り締めると、金田の緊張感はピークに達した。
そこから手を出すと、ジーンズで手をぬぐう。

一学期終了間際の放課後。
赤澤達が引退し、部長の座を彼から引継いだばかりの金田は、部室で一人ため息をついた。
机の上に広がるのは、観月から譲り受けた、ルドルフはもとより、他校のテニス部員のデータまで、神経質そうな角ばった字でみっちりと書かれたノート数冊。
そして、つい最近まで赤澤がつけていた、お世辞にも読みやすいとは言いがたい、よくいえば大らかな字で書かれた部誌。

視覚でとらえても少しも脳に伝達されないそれらをぱらぱらとめくっていると、背後でドアをノックする音がする。
本日の練習は全て終わり、部員達は皆寮に帰ったはずである。
「はーい、開いてるよー。」
誰かが忘れ物を取りにきたのだろうか。部室の鍵は金田が管理していた。
金田は赤澤の文字から視線を外さずにそう言う。

首筋に冷えたペットボトルの感触。
「かーねーだ!頑張ってるだーね。」
「うわぁ!柳沢先輩!?」
振り返ると柳沢が金田の肩越しに部誌を覗き込んでいる。
「あ、愛しの赤澤の文字見て泣いてただーね?悪かっただーね!でもきったない字だーね。あはは!」
屈託なく笑う柳沢の唇を掴むと、いつも木更津がしているようにそれを引張る。
「…っ!そんなんじゃありませんよ!!」
「いたた!・・・金田真っ赤だーね。可愛いだーね。」
柳沢によしよしとあやすように頭を撫でられ、金田は言葉を飲み込む。
金田のささやかな抵抗も、柳沢には後輩とじゃれあうきっかけに過ぎないようである。
彼の言葉に悪意は微塵も感じられないのが余計辛かった。

「…どうしたんですか、柳沢先輩。」
くしゃくしゃになった前髪を直しながら、金田は恨みがましい目で柳沢を見上げる。
柳沢は金田の正面に回ると、パイプ椅子を引いて腰掛けた。
「金田、もうすぐ何があるか勿論覚えてるだーね?」
机の上で両肘をついて手を組む。
観月や木更津と話す時のような緊張感はなく話し掛けやすい先輩であるが、金田はこの人に嘘をつくのが苦手である。
いつも楽しいことを言ってその場を盛り上げるが、内面は意外にナイーブ。
実は周囲に人一倍気を遣う人間である。
そんな先輩に金田は心を許して、ついつい本音を漏らしてしまうのだ。

柳沢の指すことにはすぐにぴんときたが、彼を選んでここに送ってきたであろう観月達の思惑を考えると、それを即答するのが悔しくて、口を真一文字に結ぶ。
「…。」
「まぁまぁ、そんなに構えなくても!金田の気持ちは赤澤以外皆知ってるだーね!」
「…!?」
言うまいと決めた意志も、数秒後には砂のように脆くも崩れ去りそうになる柳沢の一言に、金田はポカーンと口を開ける。

「面白いだーね!百面相?眉毛は相変わらずへの字だーねぃ?」
「か…関係ないだーね…あれ!?…じゃなくってー!!」
柳沢は金田の眉毛を指でなぞると、おもむろに鞄から封筒を取り出し、金田の目の前に置く。
「これで赤澤を祝うだーね!詳しくは中に観月からの指示が入ってるだーね。よろしくだーねぃ!」
金田の肩をポンと叩くと、柳沢は両目を同時に瞑り親指をグッと突き出す。
GOOD LUCK!という意味らしい。
ちなみにウィンクのつもりらしかった。

気を取り直して金田は、恐る恐る封筒に手を伸ばす。
持ち上げると中から、チャリンチャリンという小銭の音。
中を覗くと千円札が数枚と、先ほど柳沢が言っていた、観月からであろう手紙。
折り目がピシッとつけられた白い便箋を開くと、ほのかにいい香りが漂う。

『金田君へ。
もうすぐ赤澤の誕生日ですね。
今年は僕達は皆帰省してしまっているので、このお金で赤澤にケーキでも買って祝ってやって下さい。
あ、そう言えば赤澤も、実家に帰ると言っていましたっけね。
金田君も都内なので問題ないでしょう?
宜しく頼みましたよ。』

追伸に書かれた観月の指示によると、観月が赤澤を家に何とか留まらせるので、金田は急に押しかけろというドッキリ作戦のようである。
ご丁寧に最寄駅からの地図まで添えてあった。

かくして金田は、駅ビルの中にあるケーキ屋に来たのだが、いかんせん日曜日。
地下の洋菓子フロアは家族連れやカップル、女連れ同士でひしめき合い、ショーケースの前はごった返していた。
この人ごみを掻き分けて注文をし、赤澤の家に辿り着いたとしても、果たして自分は歓迎されるのだろうか。
観月や木更津のような綺麗な人ならともかく、いつもつるんでいる自分である。

少なくとも、赤澤に嫌われてはいないと思う。
この胸に押し殺した感情を知られなければ、赤澤は自分のことを、可愛い弟か犬くらいには思ってくれているはずだ。
でももし、彼女といたりしたら…。
赤澤から具体的なその存在を聞いたことはなかったが、金田の胸に一抹の不安がよぎる。

美味しそうなケーキに目移りするたびに、そんなとりとめもないことが浮かんでくる。
空調の効きすぎた店内にも関わらず、金田の額には玉のような汗がびっしり浮かんでいた。
これ以上ここに長居したら、状況が悪化するのは目に見えていた。
何度も回れ右をしようとしたが、もしかしたら赤澤が喜んでくれるかもしれない。
例えそれがケーキに対するものでも、あの笑顔を独り占め出来るのなら。
そう自分を奮い立たせ、金田は日頃赤澤に褒められていた背筋のよさを取り戻すと、店員に話し掛けた。

何とか目的の物を購入し、金田は赤澤邸の門の前に辿り着いた。
ここを訪れたのは初めてではなかったが、今日は金田にとって自分のことのように重大なイベントの日である。
それに赤澤が引退してから、期末テストだなんだと忙しく、ここ半月ほど顔をあわせていなかった。
たった二週間。
それでも毎日朝晩の練習に、学年は違えど寮内でも赤澤と一緒だった金田にとって、その二週間は大きい。
赤澤引退の時に大泣きしてしまい、色々と迷惑をかけた身であったから、会い辛いという気持ちもあった。
しょうがねぇなぁと、泣いてるのか照れてるのかわからないような、くしゃくしゃの笑顔で自分を受け止めてくれた赤澤に。

何度もインターフォンのボタンを押そうとし、そのたびに指が震え、接触直前で止まってしまい、金田はシャツの胸元のボタンを握り締める。
午前中、早めに家を出たものの、ケーキ屋で予想以上に費やしたので、アスファルトに落ちる影が一日で最も短い時間帯。外に出る人もまばらである。
蝉の鳴き声と、試合中にも感じたことのない、張り裂けそうな胸の鼓動。
真上からじりじりと照りつける日差しの強さ。
髪の生え際からうなじを伝う汗。

何もかもが臆病な金田をこれでもかと責めたてる。
金田はこうなったら勢いだと、息を大きく吸い込む。

「おい金田!」
背後から野太い声。
そこへ、自転車のタイヤが軋みながら止まる音。
「す…っ、すいませーーーん部長!!」
反射的に謝りながら恐る恐る振り返ると、ハンドルにスーパーの買い物袋をぶら下げた赤澤が自転車から降りていた。
「もう部長じゃねぇよ!それに別に謝る必要ねぇだろ?」
金田の頭を軽くはたくと、赤澤は片手で門を開ける。
「あ、赤澤ぶ…先輩はどこへ行ってたんですか?」
「何か観月から電話があってよー。今日は家にいろってうるせぇんだよな。でも買い物頼まれたから仕方なくすっ飛ばしてきた…ってこんな話はいいからさっさと来いよ。」
金田が来たことを当然のように受け入れると、赤澤は自転車を止めて金田を手招きした。

「ほらこれでも飲めよ。で、どうしたんだ?」
金田に冷えた麦茶を差し出すと、赤澤は床にあぐらをかいた。
赤澤の部屋に通された金田は床に正座したまま、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
いつも通りの様子の赤澤に、安心すると同時に寂しさを覚えてしまう。
赤澤にとって、金田がいなくても毎日は過ぎていくのだ。

「あの、部長、違う、赤澤先輩。」
「ったくしょうがねぇなぁ。部長でいいよ部長で…なぁそれ何だ?」
おどおどする金田とは対照的に、自分の部屋でリラックスしきった赤澤は、背中をぼりぼりと掻きながら、金田の傍らにある袋に視線を注ぐ。
金田の心拍数がまたもや一段階上がる。
もはや早鐘を通り越して、このまま泡を吹いて倒れるのではないかという勢いである。

「すいません…あ、部長、その、この後デートの約束とかは…。」
水滴のついたグラスを両手で持ったまま、金田は赤澤の顔を見れずにフローリングの木目を数えていた。
「あぁ!?そんなんあるわけねぇだろ!厭味かおまえ!」
「あぁ、そうなんですか…よかったぁ…。」
少しだけ肩の力が抜けて、思わず安堵の言葉を発してしまう。

「何がよかったなんだよ?馬鹿にしてんのか金田!」
「あの、違います!すいません、こっちの話で…。」
焦って顔を上げた金田の目に入ったのは。
カラン、と氷の音をさせて麦茶を口元に運ぶ赤澤。
ごくり、とそれを飲み込むたびに動く喉仏に意識が集中する。

「おい金田?」
怪訝そうな赤澤の声ではっと我に返る。
こんな時にでも、自分の本能は浅ましい。
そんな罪悪感を振り切るように、金田は麦茶を一気に飲み干した。
一瞬だけ、この感情を心の奥底に流し込めるように。

「何だよ変な奴だなぁ。おまえから来るって何か意味があるんだろ?」
赤澤の怒っているようで、金田から話せるよう気遣うせりふに、ちくりと胸が痛む。
誰よりも赤澤の一言一言に耳を傾けてきた金田だから、わかってしまうのだ。
先輩達に機会を与えられ、赤澤に招いてもらい、金田は何一つ自分から行動を起こそうとはしていない。

自分のことを真っ直ぐに見つめる瞳。
この人を真っ直ぐに見つめ返す資格が自分にはないと、金田は思う。
彼のことを想う感情が、今まで自分を引張ってくれた思いやりに対する、何よりの裏切りだと。
いつも彼が気付かないところから見つめることしか、自分には許されないと言い聞かせてきたから。

「テニスしてんじゃねぇんだし、そんなに緊張しなくたっていいんだぜ。いつも肩肘張ってると疲れんだろ?」
普段は、知らない人には怒っているのかと勘違いされるような目つきが、ふっと和らぐ。
今日くらい、赤澤の可愛い後輩として、無邪気に笑っていても許されるのだろうか。

「あ、あのですね、今日赤澤先輩、お誕生日じゃないですか?金田、代表としてお祝いさせてもらいに来ました!あの、自分じゃ、迷惑でしたか!?」
甘い誘惑に押し流されそうになりながら、金田は赤澤に口を挟む隙を与えないよう、一気にまくしたてた。
袋から正方形の箱を取り出すと、赤澤に押し付ける。
「何だこれ?この匂いはもしかして…。」
リボンを外し、箱を開けると、赤澤は目を見開いて金田を見つめた。

『Happy Birthday,Dear Yoshiro!』

「うぉーケーキじゃねぇか!すげぇ旨そう!!いいのかこれ!?金田ありがとうな!」
赤澤に礼を言われたことなど数える程しかなかった金田は、感謝の言葉に全身が熱く
なった。
あの日きつくしめたはずの涙腺が、ふいに緩みそうになる。

首に腕を回されると、床に置かれたケーキ越しに抱き寄せられて、手の行き場を持て余し、赤澤のTシャツの裾をくいくいと引張る。
金田が知っている、かすかな汗のにおい。
金田の知らない、赤澤家で使っているであろうシャンプーの香り。
赤澤のことならささいなことまで知りたいという、金田の貪欲な嗅覚に赤澤は気付いていない。
試合では日常茶飯事なこの行為も、赤澤の部屋で二人きりの、しかも大切な日にこれ以上されると、金田の中では特別な意味を持ってしまうから。

「うわぁ、部長 、危ないッス!壊れますよ〜。」
金田はふざけ半分でその胸を押し返すことしか出来なかった。
「あのですね、これも実は観月さん達が企画して下さって、金田は…。」
「こんなことしてもらって迷惑なわけねぇだろ金田!それにあれだぜ、誰が考えようと、ここに来ようと決めて、これを買ってくれたのはおまえだからな!素直に嬉しいぜ?俺は。」
うつむいた金田の頭上から降る、心に染み入るような言葉。
眩暈がしそうだった。

いつも、自分を励ましてくれるこの人。
自分を後押ししてくれるこの人。
「だから胸を張って祝いに来い!ほら頭上げろ!」
真夏に真っ直ぐ日差しを浴びて咲いた向日葵のような明るい笑顔のこの人。
自分は日陰でその花を見上げることしか出来ないけれど。

赤澤がいるから、背筋を真っ直ぐに伸ばせるのだ。
例えそれが、後ろめたい気持ちを隠すための虚勢であっても、赤澤のためなら無理もいとわない。
それが今、金田に出来る全てだから。

「あ、ろうそくもあるんですよー!赤澤部長フーッってやりましょう!!何か楽しくって暑くなってきましたね!」
金田はもう少しで溢れ落ちそうになる滴を押し留めるように、手の甲で顔を拭った。

明日からもまた、永遠にこの感情を持て余すとしても。
この一瞬だけは赤澤に素直に感謝したいから。

『生まれてきてくれて、ありがとう。』


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