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「それじゃ、よろしくな!金田。」
目の前に差し出された大きな手を取っていいものか、金田は戸惑いを隠し切れなかった。
「どうしたんだよ?俺とダブルス組むのが不服なのか?」
びくびくと、自分を窺うような金田の視線に、赤澤は声を荒げる。

「いえ、そんな!!でも、部長…。その…だって、部長はこのまま、シングルスかと…。」
ユニフォームの襟の部分についているファスナーをせわしなく動かしながら、金田は赤澤を真っ直ぐに見られないでいる。

何よりも、誰よりも、赤澤とテニスをしている時間が金田にとって一番大切であり、憧れの部長とダブルスを組めるのは、願ってもみなかった奇跡。

それでも嬉しさより、戸惑いが浮かぶのは、赤澤が今まで、生え抜き組、補強組合わせても、シングルスでずば抜けた成績をおさめていて、それを金田も誇りに思っていたから。
しかも赤澤にとってこれからの大会は、3年生最後の公式戦であり、敗退が決まったと同時に引退がやってくるもの。

だから正直、今日のミーティングで観月から
「金田くんには赤澤とダブルスを組んでもらいます。」
と言われた時も、素直に喜べなかった。
赤澤のダブルスへの適応能力や素質、作戦は観月からも十分説明してもらい、そのシナリオが今まで狂ったこともなかったから、金田はこの組み合わせを怪訝に思っているわけではない。
「赤澤を頼みますよ。」
と観月に肩をポンポンと叩かれた時、むしろこちらがお願いしたいと思ったほどである。

それなのに、胸に引っかかるこの感情。
前向きになれない理由。

何よりも、誰よりも、赤澤とテニスをしている時間が金田にとって一番大切。
それは紛れもなく真実。
でも、テニスをしている赤澤が、今の金田にとっての原点であり、彼という存在がなければ、ここまで部活に打ち込んでこられたかもわからない。
出来るだけ、一秒でも長く、その姿を自分の目に、胸に、焼き付けていたいから。

普段一緒にふざけ合って馬鹿なことを言い合って、くだらないことでいつまでも笑っている赤澤も。
部活中、部員に檄を飛ばす真摯な姿の赤澤も、自分だけに曝け出してくれる悩める赤澤も。
金田にとってはどれも、かけがえのない赤澤の姿。

それでも、ラケットを握ってその恵まれた身体を躍動させながら、ネットの向こうの相手を、威嚇するような鋭い視線で追い詰める赤澤が、やはり一番好きだから。

身長だけではなく、プレースタイルだけでなく、決して追いつけない存在でも、見つめるだけならきっと許されるから。

このまま永遠に赤澤と時間を共有できたら、などと夢のようなことを考えてしまい、その後自分の稚拙で我侭な妄想を、心の中でそっと懺悔する。

そんな毎日なのに、一緒のコートに入って均整の取れた背中から腰、脚へのラインを試合中見せ付けられて、これまで以上に無邪気で過剰なスキンシップを計られたら。

何よりもダブルスは、相手との息が合わなければ、一人一人の潜在能力が十分でも、それを発揮出来ないどころか、足を引っ張り合うことにすらなりかねない。
逆にぴったりとはまれば、二倍どころか無限に互いの力を高められるもの。

どちらにせよ、二人だからの難しさも心強さもあり、奥が深い種目で、一朝一夕で身に付けられるものではない。

公式戦にレギュラーとして出るようになってから、ずっとダブルス一筋できた金田は、その緊張感も敗北感も、勿論快感も経験している。

それをこれから赤澤と味わうとしたら。
人は苦楽をともにした相手に、より深い感情を持つもの。

金田にとって、見つめるというのは、今赤澤を想う唯一の手段であり、超えてはならないライン際ギリギリの行為。
唯一己の欲望に忠実になれる行為であると同時に、感情を堰き止めなくてはならない行為。

後輩想いと同時にテニスに関しては自尊心の強い赤澤のことであるから、二人きりの練習でも試合でも、常に彼がリードしないと気が済まないであろう。

そこを経験の差から、自分がさりげなくフォローしよう、という覚悟は出来るし、実際今まで赤澤を立ててきたのだし、金田にとって『敬う』という言葉は赤澤に使うために存在するもののようであったから、その点は問題なかった。

本当に引っかかるのは、金田が自分の中で引いたラインを、赤澤は何のためらいもなくなぞり、踏みつけ、時にそれを飛び越えること。

大事に飾られている美術品を、張られたロープのこちら側から鑑賞するのは、それはそれで趣があっていいのかもしれない。
高値で自分では到底手の届かないものであれば、脳裏に焼き付けるという手段がある。

それが壊れやすい状態のままで、自分の手元にやってきたら。
このまま自分のものになったらという幻想を抱かせてくれたら。

いっそこの感情が、中学時代の激しい妄想と憧れの延長で、いつかは「部長のこと好きだったかもしれません。」なんて笑える話で終わってくれたら、と身勝手な結末さえ願っている金田にとって、それ以上酷なことはない。

その涼しげな目に、自分だけが見つめられたら。
その形のよい唇に、自分の名前を呼ばれたら。
その綺麗な眉をしかめて、自分に助けを求めてくれたら。
その厚い胸を上下させて、苦しそうに息をされたら。
その褐色の肌につたう汗もそのままに、抱きしめられたら。

自分を必要とされたら。
優しくされたら。
泣きたい時に傍にいてくれたら。

期待を持ってしまったら。

「『でも』、『だって』、次は何だ!?得意の『スイマセン』か?直せっつったろ!絞めるぞ!」
金田の手の上から自分のそれを重ねると、そのままファスナーを顎まで引き上げる。
肌の色からは想像できないひんやりとした感触に、金田は思わず赤澤の手を払いのけた。

「いいか、俺は自分で選んだんだよ。おまえをな。」
金田の顔を引き寄せると、その額に自分の額を擦り付け、赤澤はさらなる追い討ちをかける。

「おまえじゃなきゃやらねぇって言った。金田じゃなきゃ駄目なんだよ。」

至近距離にある、憧れの存在。
求めてやまない、焦がれてならない、全て。

どうして。
欲しかった言葉をさらりと言いのけて、この人は壊そうとするのだろう。

自分が守ろうとするものを。
理性を。プライドを。心地よい胸の痛みを。
何より二人に残された想い出を。

忘れろというのだろうか。

鼻先を掠める香りを。
首筋にかかる息を。
髪を。
肩に置かれた汗ばんだ手を。
髪の毛に通された指を。

誰よりも深く知ってしまった後に。
誰よりも深く味わってしまった後に


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