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「部長よくこんな穴場知ってましたねぇ!」
「昔家族でよく来たんだよ。」
夏休み前の土曜日、金田は練習を見に来た赤澤に連れられて、学校から電車で1時間ほど行ったところにある、海岸に来ていた。
波打ち際を歩く二人以外、日没間近という時間帯からなのか、周囲に人影が 見当たらない。

「赤澤部長んちって仲良しなんですねぇ!」
「姉貴にゴムボートから蹴落とされたからよ、しばらくトラウマになった っけなぁ…。」
「でもスキューバやったりするんですよね?」
「克服したんだよ。そんなんで避けてたらかっこ悪いからな。」
「へぇ〜すっごいですね部長!…。」
他愛ない会話を続けるうちに、金田の足が止まる。

「まーだ気にしてんのかおまえは!」
赤澤の怒ったような声も、金田を心配してのことだと身に染みるほどわかって、思わずうつむいてしまう。
「…すみません…。」
金田は消え入りそうな声で、その一言を伝えるのがやっとだった。

「また謝るんだな。俺、注意しただろ?」
優しい口調でそう言いながら、金田の肩を抱くと、そこはビクッと反応し、 小刻みに震え出して、赤澤はその手を引っ込めた。
「それにもう、部長じゃねぇよ。おまえだろう金田部長。」
やり場のない手を砂浜につくと、制服のズボンが汚れるのも気にせず、 赤澤はその場に座り込んだ。

都大会のコンソレーションで、聖ルドルフ学院が氷帝学園に負けてから 一週間。
当然2年生の金田達は毎日部活があるのだが、赤澤達3年生は事実上そこで テニス部を引退という形になり、ささやかながら送別会が行われた。
赤澤から部長の座を引き継いだ金田は、氷帝戦で負けた時に続いて、抱負を語る席で号泣してしまったのである。
そんな金田に赤澤は黙って胸を貸してくれたのだった。

赤澤にとっては、「毎日頑張って練習していた大好きなテニスで負けた ことが、余程悔しかったんだろう。金田はほんとに真面目だなぁ。」 くらいの出来事であろうが、金田にとっては勿論そんなレベルでは済まされ ない。

関東大会に進出出来ないことは、すなわち赤澤がこのテニス部から引退する ことであり、その時点で赤澤とのダブルスのコンビが解消されてしまうのだ。
しかも大好きな尊敬する先輩に、無様な姿を晒し、きちんと挨拶が出来な かった自分が腹正しい。

心にぽっかりと空いた穴の大きさで、どこまで自分が赤澤を想っているのか、あらためて痛感する。
そしてどんなに想っても、この人と自分が男同士でよい先輩・後輩でいる限り、決してそれは報われないものだと、赤澤の制服のシャツに涙の跡を残しながら、金田は思い知らされた。
肩にそっと置いた手から伝わる震えも、嗚咽も、目の前の人へは「テニスへの敗北感」にしか映らないのだから。

それからというものの、これからの部活を引張って行くのは自分だと、頭では理解しているつもりだったのだが、行動が伴わない、空回りの日々が続いた。
そんな金田を裕太は、部長という慣れないポジションからのプレッシャーで 大変なんだろうと、率先して支えてくれている。
観月も時間があれば部に顔を出して、データ満載のノートを元にアドバイスをおくってくれるし、他の3年生も差し入れを持ってきたり、ラリーの相手を 買って出てくれたりする。
勉強の息抜きになると気を遣って言うが、なんだかんだ言っても皆このテニス部のことを愛しているのだ。

「いつもありがとうございます。」
努めて笑顔を作るものの、金田の胸中は複雑だった。
負けた悔しさより、赤澤に会えない寂しさの方が勝るなんて、口が裂けても言えやしない。
そんなことを考える自分がいやだったし、好意を寄せてくれる先輩達や裕太に失礼であるし、何より赤澤がこれを知って喜ぶわけがない、と。

土曜である本日は、スクール組である部員達は授業終了後直接そちらへ 向かってしまうので、部活の方は自由参加になっていた。
それでも一生懸命練習をし、金田に熱心にアドバイスを求めてくる後輩もいて、そんな姿を一年前の自分に重ねては、またしても赤澤を思い出してしまう。
尊敬する赤澤のように、自分もこの子達に何かしてあげたいのに。
まっすぐ突き刺さる無垢な視線が痛くて、思わず
「じゃあ、あとは今言った通り練習してみて。」
そう言うとそそくさとコート脇のベンチに向かう。

「ありがとうございました!」
「金田部長って優しいよなぁ。上手なのにちっとも威張ってないし、尊敬するよ。」
「うん、色々聞きやすいよね。僕も赤澤先輩みたいに、金田部長とダブルス 組めたらなぁ。」
背中から十字架を背負わされたように、ずっしりと重い言葉がのしかかる。

うっそうとした木々に覆われて、ちょうど陰になっているベンチに腰を 落とすと、スポーツ飲料を口に含む。
炎天下の下置きっ放しにされていたそれは、もはや清涼感を失っていた。生温さだけが口の中に広がる。
まるで今の自分みたいだ、と金田は思った。
素直で優しい、爽やかで一生懸命、周りは自分にそういったいい印象を持ってくれているけれど、本当の自分の中にはこんなに汚い感情があって、澱んでいるんだと。

青く晴れた空、照りつける日差しに眩暈がして、頭からタオルを被って肩を 落としていたところ、突然後ろからのしかかられた。
「金田部長、元気ねぇな。」
「赤澤が重いからなんじゃないの?はいこれ、差し入れ。」
金田の横に座ると、木更津はコンビニの袋を差し出した。
「あ、ありがとうございます。わぁ、アイスですね!」
ガサガサと袋を開け、空元気な声で笑顔を作ると、木更津の心配そうに自分を見つめる瞳が目に入る。

「俺これな!金田半分こしようぜ。」
腕を伸ばして袋に手を突っ込んできた赤澤の髪の毛が、汗もろくに拭って いない金田の首筋に張り付く。
一度寮でシャワーを浴びてきたのか、シャンプーのいい香りが鼻先を掠めて、また眩暈を覚えた。
「差し入れって言ってるのに率先して食べようとするなよな…。はい、 これ金田のと、仕方ないから赤澤の分ね。金田部長、ちょっと休憩入れても いい?」
「あ、はいどうぞどうぞ。」
「赤澤、金田より随分大きいんだから、あんまり部長に無理させないでよ?」
赤澤の手を払うと、木更津は袋を持って立ち上がった。
金田の目の前には15pが、永遠に越せない断崖のようにそびえ立っている。
唇を噛み締めたまま、金田は喉の奥につかえる言葉を発せずにいた。

「おい金田、この後何か予定あんのか?」
部員達の歓声を遠くに聞きながら、赤澤は沈黙に痺れを切らしたように話し 出した。
「いえ、特にはないですけど…。」
「金田海行きたがってただろ。」
切れ長の瞳に直視されて、金田はとっさにタオルで顔を拭くふりをして、 その視線から逃れた。
普段は鈍いのに、いざって時に勘が働くから。
いっそずっと鈍感でいてくれたら…。

「そうでしたっけ…?」 少し前までは、こんな日々が来るかもいれないとは、頭でわかっていたものの、それはまだ、遠い未来の話のようで。
関東大会に進出が決まった打ち上げで、部員皆で行くものだって思っていたから。
傷心の海なんて、いかにもな感じで、何よりこれ以上赤澤に醜態をさらすのは、いくら仲の良い先輩でも、絶えがたいものがある。
小さくたって、中学生だって、男のプライドというものがあるのだ。

「今って混んでるんじゃないですか?」
気乗りのしない素振りをして、二人っきりという状況を避けたかったのに。
「穴場を知ってるから連れてってやる。着替えたら校門にダッシュで来いよな。」
という赤澤の命令形にはさからえず、金田は袋から出したままで口に運ぶことのないアイスキャンディーが、地面に水玉模様を作っていくのを、うつろな 視線で追っていた。

「うわぁ金田!アイス!!勿体ねぇなぁ。」
眉をしかめた赤澤の指が示す方向で、金田はようやく我に返った。
溶けて落ちた甘いアイスみたいに、自分のこの感情もいつか消えてなく なったらいいのに。
そして消え行く感情をも、赤澤が惜しんでくれたらいいのに。
そんなことを考えながら、手を洗いに水道へ駆けて行く。
蛇口をひねると、勢いよく流れ出す水しぶきと一緒に、目の奥から、自分ではコントロールできないものが堰を切ったように溢れ出した。

電車の中で赤澤は、金田のウサギのように充血した目を、「暑いからって ちゃんと寝ないとバテるぞ。」という一言で片付けて、黙って肩を貸して くれた。
目的駅が近づくと、「これからテニスの話題は禁止だ!」と言って、最近 好きな芸能人、プロ野球やJリーグの話、漫画の話、音楽に映画の話など、 今までで最高に話したのではと思われるほど、二人は会話を交わした。

これが赤澤なりの気遣いであり、何より優しさなのだと感じるたびに、相手のことを知るたびに、押し殺した言葉を吐き出しそうで、でもやっぱり一緒に いたいという矛盾した気持ちも消えずに、金田は困ったような眉毛がもっと 八の字になるような笑顔しか返せなかった。

海岸に着いてからも、赤澤は禁止令を破ることなく、この場所の思い出を 語っていたのだが、心ここにあらずな金田の様子に、二人の間で禁句だった コンソレーションの話を自ら持ち出してしまったのだった。

「まぁ気にするなって方が無理な話だけどな。俺だっておまえが いなかったら泣いてたかもしれないし。もう少し中学でテニスもしてたかった しよ。」
頭の後ろで手を組むと、赤澤はそのまま砂浜に寝転んだ。
「でも、こんだけ悔しいってのは、テニスがそれだけ好きだったってことの 裏返しだろ?それはおまえも同じじゃないのか?」
「はいぃ…。」
膝を抱えて、金田は口の中にもう少しで、目の前の海に似た味が広がりそうになるのを、必死でこらえていた。

「別に金田が泣こうがわめこうが、それでおまえの価値が下がるわけじゃ ねぇんだから。いいじゃねぇか。無理に全部捨てようとしなくたってよ。」
そう言うと赤澤は、強引に金田の制服のシャツを引張った。
とっさのできごとにバランスを失った金田は、後頭部から赤澤の上半身に倒れこんだ。
「少なくとも俺は嫌いにならないから、安心してテニスしろ!」
赤澤の大きな手が、ただ優しく金田の髪の毛を撫でる。
「す、すみませ…!!」
「おまえは人の痛みがわかる優しい部長になれよ。…これで元部長の 仕事は終わりだぞ。」
「すみませ…、あ…ありがとうございます。」

「高校でダブルス組むまで、成長してなかったら指名してやんなぇからな。 ほら約束。」
目の前が霞んで視界が悪かったが、金田は差し出された赤澤の小指になんとか自分のそれを絡ませた。
急に身体中の血液が繋いだ指先に集まった気がするし、相変わらず心臓は 聞こえるのではないかというくらい脈打っているが、さっきまでの緊張感が 少しずつ和らいでいくのも感じる。

この人が言った捨てなくてもいい感情というのに、自分の恋心が含まれて いるはずはないけれど、今の自分はただ、がむしゃらに、この人の後を進んで いくことしかできないから。

今度来た時には、もう少し自分を好きな自分で、この人を想っていられたら。

喉に流れる塩の味を感じながら、耳から入る波音に、尊敬する人を想い重ねながら、金田はいつまでも、赤澤と繋いだ指先を離せないでいた。


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