WHAT YOU WANT
「あ、裕太くん。今日は早かったんですね。」
いつものように月曜日の四時間目、体育の授業を終えた俺は、着替えを済ませると一目散に食堂に駆け込んだ。
いつもは二人で先輩の分まで席をとっているんだが、この曜日だけは金田一人に任せてしまっているため、席の上には彼のノートやらペンケースが散らばっていた。
今日はその次に観月さんが来たらしく、他の先輩の姿は見当たらない。
「観月さんどうもっす。金田は?」
「僕が来たんで先に買いに行ってもらいました。裕太くんもよかったら先に行って来て下さい。お腹空いたでしょう?」
観月さんに優しく微笑まれて、俺は腹の音がならないよう、必死で力を込めた。

そして今しかないチャンスを目の前に、俺はきのうの失敗を繰り返してはいけないと、ごくん、と唾を飲み込む。
目前に迫った観月さんの誕生日を前に、俺は満場一致で彼を誕生会に誘う役目を仰せつかっていたのだ。



きのうはせっかく金田が一番手に来た観月さんのために席を外してくれたのに、すぐさま野村先輩達が来てしまったため、言うチャンスを逃してしまった。
別に誰がいてもいいと思うんだが、木更津先輩に「観月と二人きりの時に言うんだぞ?」と満面の笑みで三度も念押しされては、言うことを聞かないわけにはいかないからな…。

「…ごめん!!」
観月さんが席を外した隙に、金田が両手を合わせた。
「なんで金田が謝るんだよ?」
「え、だって、せっかく…なぁ…。」
金田は何かを言いづらそうに言葉を濁すと、手の中でから揚げを弄んだ。

「…別に。緊張しちゃうんだ俺…変だろ?」
どこか落ち着きなく視線をさまよわせると、額に汗が浮かんでくる。
怒られることを覚悟していたみたいな金田は、俺の言葉に目を見開いた。
「変じゃないよそれ…。憧れだったら…。」
「金田は赤澤部長といると緊張する?」
俺がそう言うと、金田は苦笑いを返してきた。

「う〜ん…緊張するけど、でもいやな緊張じゃないかなぁ…優しいし…。」
「俺も、観月さん優しいってわかってるけど、なんかこう…。」
「不二、もうちょっと観月先輩に心を預けてもいいんじゃないの?」
俺からしたら観月さんより、いつも怒鳴ってばかりいる赤澤部長を優しいだなんて言う金田の方がよくわからなかった。
でもこいつは、部長と二人、元からいる生え抜きの部員で、そのわりに俺達のことを偏見で見ないから、なんか信用できるんだよな。
金田が言うことだから、俺は素直に頷き返した。

「そうか…でもどうしたらいいんだろうな?」
「そのために不二に観月先輩を誘う役をお願いしたんだよ。それに加えて、二人で話したいことがあるとか言ってみたら?頑張れよ。」
金田にそう言われて、課題が一つ追加されてしまったのだ。



「いえ…あの、観月さん、明日…。」
「裕太くん、どうしました?」
部活中はどんなに怒鳴られても睨まれても、観月さんに向かって尻込みなんかする気はない。
が、普段二人っきりになるといまだに緊張の糸が解けなかった。

「あの…。」
綺麗な瞳に吸い込まれそうになって、目線が外せないでいると。
「明日…?」
続きを促されるたびに、俺は観月さんがとても遠いところにいるんだと思い知らされる。
俺にテニスを教えてくれる時だって、そこにどんな感情があるのかもわからないんだが、そこをひとたび離れたら、俺が望むことはちゃんと口に出さない限り、かわされてしまう。

「明日、観月さんお誕生日ですよね?それで…。」
「裕太くん、お姉さん直伝のケーキを焼いてくれるんですか?」
ほら、俺が言いたかったこと、ちゃんとわかってくれるんだ。
勿論それは、頭の回転のいい人だから、俺に限ってじゃないんだが。

「あの…ほんの少しでいいんですけど、二人きりになれる時間を貰えませんか?」
「いいですよ。いつがいいでんす?」
「観月さんと話ができれば…今日の夜とかでも…。」
言い終わってからまだおさまりきらない汗がダラダラ出てきて、俺は額を掻きながら視線をあわせられなかった。
同じ男なのに、なんか観月さんはそういうの、見せちゃいけない気になるんだよな…。

「あ、皆でお祝いもします…って言っちゃってよかったのかなぁ。」
「そんなことないですよ。楽しみにしてますね。」
それを考えると恥ずかしくて、俺は早くこの会話が終わればいいと思った。
「赤澤に、少し外してくれるよう言いますから、その間にでも僕の部屋に来て下さい。」
そんな俺にもいつものようにニッコリ笑いながら紅茶を飲むその人に、ちょっと胸が痛んだ。

「はい、ありがとうございます!」
だけど、やっぱり俺は笑ってくれるのが嬉しくて、お辞儀をする。

そうして他の先輩達がやってきて、いつものように昼食時間が流れていったが、俺は時折目配せをして微笑んでくる観月さんに気が気ではなく、喉を通ったハンバーグを味わう余裕などなかった。

果たして俺は、どうしたらこの気持ちを上手に表現できるんだろうか。



その日の夕食も終えて金田と一緒に部屋まで戻った。
正直に言うと、この時の味もまともに覚えていない。
俺はベッドで枕を抱えてゴロゴロした後、虚しくなってそこへ顔を埋めた。
金田はおとなしく机に向かって明日の予習をしているようだった。
俺は、とてもじゃないが宿題に手をつけるどころじゃなかった。
トントン、とノックの音がして飛び起きると、赤澤部長達が金田に招き入れられていた。
柳沢先輩と木更津先輩、ご丁寧にノムタク先輩まで。

「おい金田、明日の観月の作戦会議開くぞ。」
金田が返事をする前にもう部長はベッドの上にあぐらをかいていて、当の本人は部屋の主にもかかわらず、隅で正座をしている。
不安そうに俺を見上げる金田に軽く頷くと、他の先輩達の間を抜けて、そっと部屋を抜け出した。
背中に赤澤部長の視線を感じたが、ここで振り返ってはダメなんだ、と直感を頼りにドアを閉めた。



その人の部屋の前まで辿り着くと、大きく息を吸い込む。
手をグーの形にして扉まで持って行くこと数回。震えるそれが視界に入ると怖気づくから、最後は目をぎゅっと瞑って、ありったけの勇気を振り絞って叩いた。
「あの、観月さん。不二です。」
「裕太くん、待ってましたよ。どうぞ。」
ややくぐもった声が聞こえて、俺は恐る恐る扉を開いた。

「あ…すみません、俺出直してきます…!」
真っ先に視界に入ったのが観月さんの背中で、思わず回れ右をしてしまう。
彼は部活の時も、スクールの時も、人前で着替えるということがなかったからだ。

「大丈夫ですよ。僕も裕太くんも、同じ男でしょう?」
耳元で囁くその声に、緊張以外のモヤモヤとした感情が胸に渦巻いて、俺は頭を振った。
ドアノブにかけた手を、観月さんの掌がそっと包み込んでくる。
鼻先をいい香りがくすぐって、俺は自分がシャワーを浴びてこなかったことを後悔した。

「さ、せっかく来てくれたんですから、こちらでお話しませんか?」
背中をポンと叩いて俺を解放すると、観月さんはシャツのボタンを下から閉めながらベッドに腰かけた。
導かれるままその傍まで行くが、どこにいていいのかわからない。
「向かい、赤澤ですから、そこでもどうですか?片付けるよう言っておきましたから、幾分綺麗かと思いますよ。」
ボーっと突っ立ったままの俺を見上げて、観月さんは笑った。
まだ閉じかけの胸元から白い肌が覗いて、思わず視線をそらしたまま、俺は部長のベッドに座る。

「飲み物を零してしまいましてね…僕としたことが、恥ずかしいんですが…。」
「観月さんでもそういうこと、あるんですね。」
俺が緊張していることは、鋭い観月さんならとっくに気づいていたことかもしれない。
それを解そうとしてくれる優しさが嬉しくて、少しだけ肩から力が抜ける。
「それは、裕太くんが来てくれる予定だったからなんですよ?」
真っ直ぐに向き直ると、観月さんはベッドの上にあった、何かを零してしまったらしい服をじっと見つめている。
「染みになるかもしれませんねぇ…。」
そう言いながら、伏し目の横顔は嬉しそうで、何だか目が離せなくなる。
観月さんが言った意味を考える余裕もなくなるほどに。

こうして、少しでも近づけたと思えば、すぐに遠くへ行ってしまう。
テニスをしている時が一番その望みが叶いそうで、でも、きっと観月さんからしたら、俺はその他大勢の戦力の中の一人。

それでも、俺の居場所を与えてくれたその人に、一人だけで立ち続けられる強さを身につけることが、やっぱり何よりの恩返しなんだと思う。

俺はそれが言いたいってことを、自分の部屋のベッドでは、理解していたはずなのになぁ。
どうして、頭と身体って、こうして繋がらなくなるんだろう…?



「ところで、お話って、何です?」
濡れた黒髪をかきあげながら微笑んでくる観月さんを前に、いやでも緊張する。
それでも、こんな機会を与えてくれた先輩達と、何より金田の優しさも無駄にしたくはなかった。
俺は深呼吸すると、何とか彼の瞳を真っ直ぐにとらえた。

「あの、変なことを訊いて、悪いんですが…。」
そこまで切り出したはいいが、その先を言うのはさすがにためらった。
部屋まで呼んでもらって、「避けてないですか?」はないからだ。

「俺、あくまでテニスで勝ちたいから、ここに来たんです。別に、馴れ合うつもりっていう意味じゃ、ありません。観月さんは、なおさらそういうところ、なぁなぁは嫌いだってわかってます。」
まずは、でも自分のいる場所が、ここ聖ルドルフにはあるって思い始めていることを、ちゃんと伝えたかった。
「でも、今日だって、赤澤部長達が…。」
「テニスで、勝ちたい、ですか。勿論、そうでなくては困りますよ。そのために僕は、データを集めているわけですから…。」
そこまで言うと観月さんは立ち上がり、俺の前に来た。

「僕は君に、できる限りのことをしています。あの技だってそうだ。でも僕にも、僕の理由ってものがあるんです。君はそれ以上僕に何を望むんです?」
肩に置かれた白い手が震えていて、俺は言葉を失った。
「僕が望むものを、君はただ与えてくれればいいんですよ、裕太くん。」
そのまま首を撫で上げられて、全身が粟立つ。
顎にその細い指がかかって、くい、と持ち上げられる。
身体が畏縮して思わず目を瞑ると、そのまま後ろに倒された。

「観月さん…?俺はただ、もっと、観月さんのことが、知りた…」
驚いて身体を起そうとすると、観月さんは身体の両脇にその腕をついてくる。
「その先に、僕がいないのなら、その必要はないでしょう?」
頬に落ちてきた滴は、そのまだ乾ききらない前髪からか、それとも…。

「お兄さんに勝ちたいんでしょう?そのための協力なら、惜しみませんよ。」
何かを言いたかったのに、それより先に、唇に何かが触れた。

離れていくその顔はいつもの通り綺麗で、俺は、口封じをされたんだ、ということしかわからなかった。



でもここで、動揺したらきっと、いけないんだ。観月さんにそういうつもりは、ないんだから。

俺にわかったには、それだけで。部屋に戻ってからベッドの中で、何度もしてはいけないことを、した。


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