耐えられる |
「…あぁ、わかった。いや、気にするなよ。じゃぁな。」 南は素っ気なさを装って切ると、携帯を後ろ手でソファーに放り投げ、そのまま背中をそこへ預ける。 刻まれた野菜や湯だっている鍋が視界に入って、こんなことを言い出した自分に軽く後悔をした。 正しくは、電波が拾った、彼の声色に、だ。 今日は珍しく、南のバイトが早く上がれる日だった。 元々授業が忙しく、余りバイトをしていない東方も、毎週この曜日は予定が入っている。 それでも真っ直ぐ帰ればいつもは大抵、南より先に家にいた。 そこで兼ねてから言っていた鍋を実現するべく、こうして南が準備を整え終わった矢先の電話。 当然大学の授業の時間割も異なる二人の間に、毎晩揃って食事をしようなどという 決まりはない。 中学時代からの付き合いだから、今更そんなことまで気兼ねするような二人ではない、と思う。 それでも学校帰りに待ち合わせた日に限って、授業が延びて遅刻だとか、今日のように出先で食事をしてくるだとか、自発的にではなくて、寧ろやむを得ない事情の際にまで、電話をかけてくることが増えた、とも思う。 元から南は、身内贔屓が激しいというのか、まず大切にする人間に対して、自分がどう行動するかを考えるタイプだ。 だから約束の変更があっても、それはそれで仕方がないと思う。 逆に東方は、約束事に対して律儀で、それに合わせて自分が行動する、というルールが根底にある。 彼を含め複数で待ち合わせて誰かが遅刻して来た時、そこで何か言おうもの なら、きっと相手は一瞬でも負の感情を抱くだろうと、南はなぁなぁで許してしまう。 勿論それが続くのであれば、注意もするが、相手を尊重する気持ちがあってからこそ。 そんな南を尻目に、東方は顔には出さずともさらりと皮肉を言うものだから、一緒にいてドキッとする時がある。 皮肉を言うことは、別に彼にとって珍しいことではない。 内容だって、二人共通の友人宛なのだから、今更南が取り繕うことでもない、他愛無いジョークに込められたもの。 自分が大切にすればするほど、相手の反応に敏感になるのに対して、東方は大切な人へほど、割と辛辣な意見も言うということは、だいぶ前から重々承知していることだ。 人間相手に限らずどうでもいいと思うものに対しては、余計な手出しはしないが、干渉されるのも嫌う。 それでも表面上は穏やかだから、警戒心が解けるまでぎこちない南よりよっぽど好かれやすいとも思う。 そんな東方が、自分に対しては否定的なことを言わないと初めて気付いたのは、いつだったろう。 明らかに南に非があるときは叱られるが、それでもすぐさま謝ってくるのは向こうからで。 普段はそんな東方に甘えるような南ではない。 それでも最近、彼の中のポジションというものを、何故だか無性に気にする自分がいる。 今日だって本来なら、東方は彼の中で優先すべき南との約束を、破ってしまったことに対して、後ろめたさを持てば済むのだ。 南は努めていつもらしく振る舞ったし、それは大切な人に対して、当たり前の行為。 ドキッとするのは、彼が他人へ発する声と、こちらへ向けられる声の温度差を比較してしまう、自分の行為だった。 もし毎晩揃って食事しようと約束すれば、きっと東方は何でもないふりをして、意地でも南の帰りを待つだろう。 向こうはそれを悟られていないと思っているようだが、南だってそこまで鈍感ではない。 ただでさえ最近は、バイト先の不条理なことで悩む自分に合わせて、色々と気遣ってくれているのを、優しさに敏感になっている南が気付かないはずがない。 だから余計な意味など、持たせないでほしかった。 バイトのシフトがわかった時に、一番に浮かんだ相手に。 結局は、小さい頃から食べ物を大事にするよう教えられた習性で、その前に食費を節約する上で、残すなどという選択は南にはまず思い浮かばなかったが、どうでもいいテレビを見ながら、なるべくこの状況に冷静にならないよう、さっさと夕飯を済ませた。 恐らく帰ってきたら「俺も貰う」と言い出すであろう、妙に義理堅い相手を想定し、そこでまた、変に勘ぐるであろう自分も想定し。 許容量を超えた分はさっさと冷蔵庫にしまうなり手を打った。 心配されて特別だ、なんて思わない。 東方には心配されたくない、とも思わない。 懐に入れてくれた人間への包容力。 その恩恵を受けるうちの一人。 それぐらいなら、自惚れではない範囲に収まるだろう。 でも今、無性に。一番近くでその温もりに触れたい。この衝動はどう説明できるのだろう? 肝心なことを伝えられない口下手さを言い訳に、ただ傍にいたい。 人恋しい、ではない。 きっと今頃、焦る気持ちをひた隠しながら、いつも通り帰ってくる途中であろう、その人でなければ、意味がないのだから。 「なぁ、東方。今日、隣りで寝てもいいか?」 風呂から上がって髪の毛をタオルで拭いていた東方に、南はソファーの後から訊ねた。 「あぁ、どうぞ。何、懲りずにまた、ホラーでも見たわけ?」 「……。」 今日に限って皮肉を言う相手に、南は思わず言葉をなくして立ち尽くした。 「あぁ、ごめんごめん。じゃ、そろそろ寝るか。」 冗談めいた口ぶりで自分の頭をくしゃくしゃと撫でる、彼の大きな手の温もりに、救われていると同時に、こんなにも焦がれている。 「…あの時東方おかしかったよなぁ。実は俺より地味って言われて傷付いてたんじゃないのか?」 東方の部屋に敷かれた二組の布団。 こうして並んで寝るのは、ここに越してきて初めてのことだった。 和室のそこは、手を伸ばすと直にイグサの感触がして、障子から差し込む月明かり が、ぼんやりと辺りを照らしている。 「はは、そうだったっけ。まぁ、南と一緒くたにされてたからなぁ。意地になってたのは確かだな。」 聞き慣れた、というよりもう、空気みたいな声なのに。 静けさの中で耳をそばだててしまう。 南はとりとめもなく中学時代の思い出話をした。 それにただ東方が頷いてくれるまでの間が、息苦しくて。 矢継ぎ早に思いつくまま、上手く呼吸ができないまま、返事の要らない無意味な質問を繰り返す。 まるで、何かを確認し合うかのごとく。 「そうか。…なぁ、本当のところ、どうだったんだ?」 真っ直ぐに相手が見れないで、視界にぼんやりと天井が入る。 「…一緒くたが南じゃなかったら、相手にしなかったかもな。」 お決まりのように、はしゃいだ情景に、約束事より優先されていた、思いやり。 受け止められずに、零れてしまいそうだった。 溢れる前にせめて、瞳を閉じて遮断する。 「…南、寝たか?」 東方は起き上がると、そっと南の布団をかけ直した。 しばらくの間、頭上に重なる影に、南はただ、息を潜めた。 「今日は、ごめんな。おやすみ。」 やがて規則正しく繰り返される呼吸と、一度も呼ばれたことのない、下の名前。 先ほど拾ったのと同じ、自分が知る優しさ以外が滲んだ、熱を帯びたそれ。 同化して、溶け合えるのなら。 それに意味があっても、どうすることもできないから。 今ならまだ、…。 |