02/5月21日 |
コツン。 布団に入って雨音に耳を澄ましていた真田は、ふと障子に目をやった。 厚い雲が垂れ込めた今晩は、月の光も届かない。 すぐさま部屋には不規則な 水音だけが広がり、気のせいかと寝返りを打つと、背後でもう一度何かが硝子を掠める。 ゆっくりと起き上がると、窓際へ足を進める。 「…蓮ニ?」 真田は足音を立てぬよう息を潜めそっと階段を下ると、両脇に小石の敷き詰められた 玄関口を通る。 傘に覆われた身体から覗く白い肌は、触れなくても冷気を放っていそうなほど、頭上で受け 止められなかった雨粒でしっとりと濡れていた。 簡単に言えば濡れ鼠のような状態だが、相手 が物腰の柔らかな人物だとこうも違うのであろうか、真田は思わず目を反らす。 「夜分遅くに済まない、弦一郎。…寝ていたようだな。」 浴衣の胸元が少しはだけているのを見て、柳が音を立てずに静かに微笑む。 実際傍にある 池には、いくつもの輪ができては消えいき、真田の履いたばかりの下駄も、跳ね返った飛沫で 湿ってきている。 それでもやはり、真田は柳といると時折、あたかも周囲から切り取られた空間 が存在するような錯覚にさえ陥るのだった。 「構わん。それより蓮ニ、濡れたまま立ち話も何だ。早く上がって乾かせ。」 木製の引き戸を内側から開けてやると、柳も真田に従い家屋へ入った。 「これで拭け。大事な時だ、お前に風邪でも引かれたら困る。」 自室へ通すと、真田は部活で使っているタオルを何枚か、柳に手渡した。 「済まない。…弦一郎。」 礼を述べると柳はそれを受け取り、着ていたシャツを脱ぎ捨てながら、箪笥から着替えを出 そうとしていた真田に呼び掛ける。 「どうした蓮ニ。早く濡れたものを脱…。」 振り向きざまに口を塞ぐ、柳の冷たいそれ。 「…この肌が乾くまで、ここに居させてもらえないだろうか。」 やんわりとした口調だが、こういう時の柳は何を言おうとも動こうとはしないのは、真田も充分 身に染みてわかっていた。 「…服の間違いだろう、蓮ニ。明日は学校もあるのだぞ。」 後ろから抱きすくめられて、薄い布地越しにじんわりと伝わるのは、柳の心音。 「知っている。弦一郎、明日…いや今日は、何があるか忘れているのか?」 そう言われて、真田は殺風景な部屋に掛けられた、日付だけのカレンダーを見やる。 「蓮ニ、まさかとは思うが、この為にわざわざ土砂降りの中、ここまで来たのではあるまいな?」 回された腕を軽く叩くと、真田はため息をつきながら天井を仰いだ。 「そうだ、と言ったら、おまえは俺を殴るのか、弦一郎?」 くすり、と柳は笑みを零すと、真田の襟元からすっと伸びる、まだまだ少年のままの首筋にそっと 唇を寄せた。 「…殴るなら、部屋には上げん。」 「大事な時期、だからか?まぁ何れにせよ、弦一郎にとっても大事な時期だ。今日はただ、 こうして傍にいたかっただけだ。明日の朝、部活に行けば、お前は副部長として皆から祝福される身 なのだからな。」 「それならば、年上から一つ忠告してやる。理由も訊かず非常識な時間の訪問を受け 入れるのに、部活は関係ない。日頃の行いが物を言うのだ。」 そう言うと真田は、勝ち誇ったように背筋を伸ばし柳の腕をすり抜けた。 「弦一郎。それは俺が褒められているととってよいのだな?何故かおまえが嬉しそうだが…。」 「当然だ。ただし今晩は、節度のある祝福を望みたいものだな。」 「それならば明晩は可ということになる。男に二言はないな、弦一郎?」 「…。」 言い負かしたはずが柳の思惑通り。 これではいつもの展開である。 それでも突然の訪問が 決して厭ではなかった真田は、否定もせずに大人しく着替えを手渡した。 「弦一郎、おめでとう。」 色違いの浴衣に袖を通すと、柳は隣りに敷かれた客用の布団の上で、真田と向き合った。 「ありがとう、蓮ニ。」 切り揃えられた前髪の下で薄く開かれた柳の瞳に、真田もほんの少し口角を上げる。 「それでは二週間ばかりは、年上の忠告とやらをありがたく頂戴しておこうか。…弦一郎、今晩 は、お前の布団だけでいい。」 声を潜めて耳元でそう囁く柳の唇は、再び真田のそれを掠め取ると、ほどなくして穏やかな 寝息を立て始めた。 「…蓮ニ。ちっとも忠告を聞く気がないのではないか。」 先程とは違う、熱を帯びたその感触を持て余しながら、真田もまた、変わらず降り続ける 雨音に目を閉じた。 翌日真田が目を覚ますと、隣りには綺麗に整えられた布団と浴衣。 障子を開けるとそこには、 雲ひとつない青空。 玄関脇の水溜りと真田の心だけが、昨日の名残を覚えている。 真田にはいつもとは違う柳を見せてもらったことが、何よりも嬉しかったのだが、そのようなこと をいちいち口に出すのは憚られると、この日ばかりは夜半に柳が言った忠告をありがたく頂戴した。 |