13/6月4日
真田の誕生日、日付が変わったばかりに彼の家を柳が訪ねてから二週間。
まさか彼が真夜中にやってくるだろうとは、柳もさすがに思っていなかったが、本音を言うならば 訪ねて来られたら今度こそ、翌日のことなど忘れて無茶をさせてしまいそうだった。
勿論頭が固い彼のことだから、非常識なことなど実行するわけもなく、柳は胸をホッと撫で 下ろしたものだった。

テニスに関してはあくまで勝利にこだわり、我を貫く真田と、緻密な計算の元 、外堀から埋めていく自分。
プレイスタイルは違えど一歩そこから離れると、親友であり、柳の よき理解者でもある。
周りからはよく、柳が真田を立てていると言われるが、何かに耐え忍んで いる意識などまるでない。
彼には当然いるべき場所があり、あるべき姿がある。
それを成り立たせるためになら、自分の 行動に労力などという名前は付くべきはずもないのだから。

朝だというのに既に強い日差しの中、柳が傘を差しながら門を出ると、見慣れた帽子が 垣根の隙間から覗いた。
いつもは最寄駅に近い真田の家へ柳が迎えに行くのが習慣だった。
「早いな、弦一郎。」
「おはよう。俺も部員より先に言っておきたくてな。誕生日おめでとう、蓮ニ。」
照れもなく、てらいもなく。
いともたやすくそう言われて、柳は澄み渡った空を背に、凛と 前を歩いて行くこの男をとても頼もしいと感じた。

それ以上でもなく、それ以下でもなく。
柳が想いを告げた時も、ありのままを受け入れてくれた。
例え想いの行方が、柳の描く深さには満たなくとも、心の奥底で同じものを育んできた、それだけで 今は充分。
真田の、自分だけに見せるたどたどしい愛情表現に、年相応さと安心感を覚え、 独占欲を満たされているのは柳の方なのだから。

道路に水撒きをする主婦。
犬の散歩中の初老の男性。
出勤途中のサラリーマン。
自転車を立ち漕ぎする女子生徒。
色々な人と擦れ違いながら、一本道をただ歩く。
真田から真っ直ぐに伸びた影と、柳の傘から落ちた影が一部分重なり合う。
それだけでも生まれてきたこの日は、何故だか特別なことに思えた。

部活を終えた後、一旦着替えを済ませた真田が柳の元を訪れた。
他の部員からは各々らしい心遣いを頂き、柳からすれば真田と過ごせるこれからの時間だけでも充分だったが、やはり礼儀を重んじる彼だけに、形でも何かを贈りたいと言う。
藍色の風呂敷包みを携えてきた真田を見て、柳は彼らしいな、と微笑んだ。
そんな柳を見て、真田も自然と目を細めた。
それを受けて柳が「ふ。」と笑ったら、さすがに真田は「何だ?」と首を傾げた。
そんな真田さえ愛しく思えて、玄関の扉を開けたまま、瞬きをする間程の口付けをした。

太陽を背にしていても分かる程朱色が差す真田の頬。
それでも条件反射なのか、教えた通りきちんと目は閉じられていて、柳はもう一度「ふ。」と笑った。
「おまえのそういうところは全くもってわからん。せめて靴を揃えてからにしてほしいものだな。」
「それは誘っているのか?弦一郎。」
「…礼儀作法からやり直すか、蓮ニ?たるんどるな。お邪魔するぞ。」
ピンと張った背筋が、玄関の段差で躓いた時、柳は笑いを噛み殺すのがやっとだった。

和室に通された真田が広げた風呂敷には、柳が見慣れた硯や文鎮、筆が入っていた。
それらを手際よく広げていく目の前の男に、柳は姿勢を正して訊ねた。
「成る程、今日は特別にこちらで教えてくれるということだな。感謝する。」
「…おまえに俺が教えることなど、この程度しかないからな。」
丹念に墨をすりながら真田はそう呟く。
それは裏返せば、柳は余程の信頼を寄せられているということであろうか。
こういうことをさらりと言えるというよりも、本人は無意識なのだろう。
真田の頭の殆どをテニスが占領していること位、柳には手にとるようにわかる。

「そのようなことはない。」
首を左右に振ると、真田は安堵のため息をついたかのように見えた。
それがまた、柳の心を満たしていることに、彼が気付く余地などない。
「そうか。」
目と鼻の先に、書に集中する真田の横顔があり、伏せられた瞳は、テニスをしている時の ような鋭さが潜んで、穏やかで。内面を映すような気持ちのよい文字。
洗い上がりであろう濡れた黒髪と白い半紙の対比に柳が息を呑んでいると、ふと向けられる視線。
「…俺を見ても成果は上がらんぞ。」
「すまない…。」

柳が瞬きもできないでいる間、押し付けられたといった状態に近い、真田の唇。

「弦一郎…。」
「これで少しは集中するがいい!」
口調とは裏腹に、真田の字体には明らかに動揺と後悔と羞恥が滲み出ていた。
「ふ。弦一郎、たるんどるな。」
「そういう蓮ニはご満悦と言ったところか?全く…。」

柳もまた、真田といると時折、あたかも周囲から切り取られた空間が存在するような錯覚に さえ陥るのだった。
そんなことを各自再認識した、二人の誕生日。

「全く、なんだ?」
「意地の悪い…。」


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