視線
その頃の南はまだ、縦にだけ背が伸びたようなひょろっとした印象だった。
一年生の中でも、スポーツ推薦枠で入学したという彼の存在は、初めてラケットを握ったばかりの新入部員から群を抜いていた。
それでいて鼻持ちならない性格であれば、よくいえば用心深い、裏を返せばうたぐり深い東方の性格からしてまず近寄りはしなかっただろう。
つまりは謙虚で周囲と調和を図る、非常に真面目な少年だった。

幼少の頃から近所でも学校でも、自分より大きい同い年を見たことがなかった東方は、山吹中に入っても案の定背の順でも一番後ろだった。
この3年間は男子は特に急激に体が成長するらしいから、周りはたいてい中で体が泳いでいるような制服を着ていて、既に規格ギリギリのそれで間に合わせている己に向けられる好奇の視線にも、東方は慣れたつもりだった。

「東方ってデカいな!いいな〜かっこいい!」
お決まりの文句の後に羨ましがられたことは初めてではなかったが、見上げてくるその瞳は曇り一つなく、東方は素直に「ありがとう、南くん。」と言うしかなかった。
「南でいいよ、東方!」
身長が近いからと一緒に組まされた準備運動で、南はそう言うと照れ臭そうに笑った。
名の知れた彼はともかく、気まぐれで入ったクラスの違う一介の新入部員の名を、迷いなく呼ぶのが東方は不思議だった。
まともに会話を交わしたのは、正式にテニス部に入ったこの日が初めてだった。
「ああ、じゃあ、南。」
「うん!俺、ずっと東方がテニス部入らないかな〜って思ってたんだ。話してみたくて。」
「へぇ、そうか。」
そんなことを真面目に言う南が恥ずかしかったし、なるべく目立たないように大人しくしていたのに、と東方は相槌を打つだけにした。
「そこはさー、『なんでだ、南?』ってくるところじゃないのかな?」
「じゃあ、『なんでだ、南?』」
オウム返しをすると、隣りで屈伸をしている南の動きが止まる。
「じゃあって!東方って変なヤツー。」
東方が横目で盗み見ると、膝に手を置いたまま、頬を膨らませている。
「はは、よくそう言われるからな。」
「なんで怒んないで笑うんだよー。まったく──」
「変なヤツ?続きはあとで。な?」
顧問の監視の目をかいくぐって、南の口に人差し指を当てる。
よく昔妹にそうやってなだめていたため自然にでてきた行為だったが、少々南は大きくなりすぎていたかと手を離せば、予想に反してもう一度照れ臭そうな笑みを浮べていた。
「お兄ちゃん、って感じだな!あ、あとで。な?」
「ん。」
南って変なヤツ、という言葉を飲み込んで、東方もつられて笑った。



南には言葉のあやというものが通じない。
あの日の練習の後、早速一緒に帰ろうと飛んできた彼に、東方が抱いた正直な感想は「妙なのに懐かれたな。」というものだった。
それでも不思議と嫌な気がしないのも南だからなせる技なのか、「妙なのに」に続くのは「憎めない人」で、距離感が掴めないまま、気付いたら部活以外でも一緒にいる機会が増えていった。
気付いたら、というのは友人関係を築くことにおいてはごく自然なことで、東方も南のことは、今まで類を見なかったヤツ、と思う程度だった。

夏休みも近付いた、7月の始め。
いつまでも終わらない続きの延長線上で、なぜだか東方は南の家へ泊まりにいくということになっていた。
練習のない週末、何をしているのかという南の問いに、期末テストの勉強という、もっとも当たり前の答えを返した。
「東方ってエラいな!いいな〜かっこいい!」に軽く脱力していると、何時の間にか出張で勉強を見ることになっていた。
幼少の頃には近所の友達とそういうお泊り会のようなこともした東方だったが、この年になっては少し気恥ずかしい。
一般受験で入学した東方は、それでなくても他の子供が遊んでいる時間を削って机に向かっていたため、そんなありふれた時間というのが久々で、そのことに気付いたのも南のひとことによってだった。

南に訊かれずとも自然とテスト範囲をおさらいしていただろうし、こうして帰る途中にも膝の上には教科書が開かれていたことは予測がついた。
それが今、かわりに置かれているのは空きっ腹の胃には刺激の強いコロッケの入った袋。
南の家へ泊まりにいってもいいか訊ねると、珍しさに歓喜した母親に、背中を押されて快諾されてしまった。
それを翌日の朝練後南に告げると、「お、東方はどんぐらいうちで飯食うんだろ!」とまたもや期待に満ちた眼差しで見つめられてしまった。
焦った東方が「いや、そんな、予想できる範囲だぞ?」と返すと、「うん、冗談。」と笑われた。
南は口にこそ出さなかったものの、変なヤツ、と続きそうで、東方も笑ってしまった。
目が合うと南は真顔に戻り、「え?なんでそこで笑うんだよー。」と言うので、困った東方は「何でもない。」ととぼけてみる。
案の定南は一瞬目を見開き、「ふーん。」とだけ言うと、そっぽを向いてしまった。
単に口に出すまでもないことのため、適当に誤魔化しただけだった。
冗談を「どこが面白いのか」と言った本人が説明するのと同じ位、意味のないことだと。
悪気があっただけではなく、流されることが殆どであったことを逐一確かめてくる、それが東方が感じる南の「妙なところ」だった。

元々は南が「家にお土産だ!」と言い出した、最近駅までの帰り道に発見したお気に入りの店で買ったものだった。
列車に乗り込み並んで腰掛け、窓の外の見慣れた風景に、解説していたのもほんの2、3駅。
気が付けば舟を漕ぎ出していた南の手から滑り落ちそうになるビニール袋を受け止めていた。
上りの電車は幸い土曜の正午過ぎで乗客はそれほどでもなかったが、周りが気になり東方も寝たフリを試みていた。
確かにコロッケは美味しかったが、かといってそれは空きっ腹に熱々を入れるから、というのもまた東方には真理で、それでも楽しそうな南の横で、買うなと言うのも違うな、と思っていた。
「ま、いいから見てろよ!」
頼もしく言ってのけた当人は呑気に夢の世界へと旅だっているが、寧ろその方がいたたまれなかった。

今朝見かけた後ろ姿がどこか俯き加減で、具合が悪いのなら、と東方が肩を叩くと、あくびを噛み殺せていない南が「おはよう。」と言った。
朝練のないこの期間は、単純計算すればいつもより寝ていられる時間が増える。
率先して勉強しようと誘う南のことだから、その分を割いたのかと思うと、日頃ラケットを振る姿と重なって、少し心配になってしまった。
「無理するなよ?」
「いや、うん、今日が楽しみでさ。」
「───」
「そこは、お得意の『そうか』、でいいんだよ!」
南の耳朶の先が赤く染まっていて、東方は背が高くてよかったとその時初めて思った。

都合よくとるには今一つまだ、本日の主旨が東方は掴めていない。
それでもくっつきそうになる上瞼が戦うのを見て南を揺り起こす気にもなれず、見慣れない風景に落ち着きなく姿勢を変えていると、半分ほど開いた瞳が東方を見つめていた。
「あ、ごめん。起こしちゃったな。どこで降りるんだっけ?」
「ううん…今、どこー?」
手の甲で目をこすりながら訊ねてくるその声は、母親か何かに甘えているそれそのもので、東方は眉間に力を入れるふりをして堪えた。
「えーっと、確か。」
「目、いいくせに!」
どん、と腕を叩かれて、東方の手からあやうくお土産が落ちそうになる。
「おっと。」
わざとらしく右二の腕をさすると、南はちらっとそこに視線を向けた後、先ほどの東方と同じようにそわそわとしだした。
掌を膝の上でぎゅっと組んと思えば、落ち着きなく髪の毛を弄ってみたり。
黙っていることは、東方には喋ることより何倍も楽で、勿論今だって南のことを面白いと思えど、原因は自分にあることもあって、余計なことは述べないまでだった。
無表情、と周りからは多分に思われていることもあり、南もまた、それをおかしいとは感じていないようで、流れ行く景色にどこだと把握したのか、再び下を向いてしまった。
3ヶ月経ってもお互いのことをよく知らないことに、東方は不思議を感じつつも焦りはない。
毎日部活で顔を付き合わせるのだから、改まってというのも妙な話だったから。
狸寝入りが本当になったのか、すぐに南の首が上下に揺れ出した。
意地なのか、両腕を組んだまま何度も傾いたそれを起こそうとあがいている。
──そうえいば、降りる駅知らないな。
南の頭を右肩に引き寄せると、そこへ凭れさせ、まぁ急ぐ旅ではないと東方もシートに深く身体沈めれば、耳元でぶっきらぼうな声がする。
「あと、2駅だからな!」
「はいはい。」
梅雨の小休止、背後から光が差し込んでいるとはいえ、車内は充分過ぎるほど空調が効いている。
南が触れているそこが熱くて、幼い子供のように全身を預けてくる彼との対比を意識してしまう。
──俺が黙って起こさなかったら南は怒るんだろうな。
無防備な姿は照れ臭い信頼の裏返しで、東方はそれを誤魔化す為の悪戯心を手に入れてしまった。



開いた扉の向こうには、眩しい光と熱気を存分にまとった街並みが佇んでいる。
南家の最寄の駅に着くと二人同時に「あちー」が出て、顔を見合わせて笑う。
「あ、俺自転車なんだ。うち、こっからちょっと離れててさ。」
制服の襟元に指をかけて扇ぎながら、南はホームの階段を下り始めた。
「うん。」
東方も隣りに並んで着いて行く。
「はい、これよろしくな!」
ズボンの後ポケットからキーホルダーのついた鍵を取り出すと、東方の顔の前でそれを揺らした。
「ん?」
「歩くと結構かかるんだよな。だから、大きい東方が漕ぐの。」
「─デカイ男二人で相乗りしても暑苦しいだけだと思うんですけど?」
脱力しながら落ちてくる鍵を受け止めると、握り締める。
「いいだろ、俺達が涼しいんだから!」
「俺は涼しくないだろ。それに違反だし。」
「俺そんなに重くないぞ!─たぶん。」
手首を捕えられて東方が顔を上げると、南の脇腹のあたりに掌を押し付けられた。
「──南って、そんなヤツだったっけ。変なのは前からだけど。」
逆らわずにそこをつまむと、今度はくすぐったいのか身をよじっている。
「何だよそれ!」
「俺なんかに構うところ。どこが面白いんだろうなって。」
口に乗せた言葉は思ったより冷たく聞こえて、東方はハッとした。
恐る恐る南を盗み見ると、南はやはり東方を真っ直ぐ見ていた。
「あー、やっと言った!俺のこと変だって思ってたんだ。ふーん?」
両腕を組み、東方の頭のてっぺんから爪先まで眺める南の口元は、予想に反して緩んでいる。
「変同士ってことで、ダメですかね?」
「それ、フォローになってないだろ!まあ俺は、東方のそういうところが」
最後の段からジャンプした南の言葉は、滑り込んできた列車の音で掻き消された。
「そうか。」
「今、わかってないで言っただろー!」
「うん?」
「──もう、いい。ほら行くぞ!」
夏空の下、襟足を掻きながらコンコースを急ぎ足で進むその横顔はもう汗をかいていて、キーホルダーの入った手に視線を落とす。
そっと開いたそこもまた、同じように湿っていて、東方はそっと、ズボンでそれを拭った。



南が自転車置き場で指差した彼の愛車は、後に荷台の着いたいわゆる「ママチャリ」と呼ばれるものだった。
「南、荷物多いもんな?」と訊けば、「カゴついてない分いいだろ!」と背中を叩かれる。
心配性なところは東方も南も同じで、それは日頃から部活でも忘れ物をしない南の姿からわかっていたのだった。
後ろに誰かを乗せるというのは、小学校の中学年の頃まで妹相手にしていた東方だったが、やはり女の子とは勝手が違う。
ハンドルを握りなが苦労していると、後のナビの声が篭っている。
「──南、何食ってるんだ?」
「え、コロッケ。腹減ってさー。あ、東方も食う?」
ビニールをガサガサさせる南は、呑気な声で的外れなことを言った。
「それ、お土産なんじゃないのか?」
「いやー正直、買い過ぎちゃってさ。東方も協力してくれよ。な?」
手開いてない、と言う前にはもう、それが口元にやってきていた。
「はい、あーん?」
嗅ぎ慣れている油物の匂いが鼻につき、このままでは収集がつかないと大人しく従うと、ガチ、と上下の歯がぶつかった。
「あはは、引っかかったー。」
「こらこら、お兄ちゃんにもそれよこしなさい。」
妹でも最近はこんなことはしないのに、と南の悪戯に半分厭味を込めて振り返れば、ただでさえ重量オーバー気味の自転車が蛇行する。
「わーっ!ごめんごめん。」
ぎゅっと腰に手を回してしがみついてくる南が、急にしおらしくなり謝るので、東方もそれ以上は何も言えなかった。



しばらくの間、東方は歩道脇の店やマンションやビルを眺めていた。
何度もバスと擦れ違ったので、南は交通渋滞を避けて自転車を利用しているようだった。
当の本人はといえば、時折「そこを右。」とか、「コンビニの前を左。」などと最低限のことしか告げずに、あとはずっと頬を東方の背中に押し当てたまま黙っている。
何かまずいことを言ったのか、東方も思案を重ねたが、これといったことが思いつかない。
こんな時「ごめん。」と謝ってみれば事態が動くかもしれない、とも考えたが、原因のはっきりしないそれは、南の性格上逆効果だ、という結論に達した。
会話のない時間は、元から饒舌ではない東方にとっては特に苦でもなかったが、南相手では今までずっと、このような沈黙はなかった。
──怖いって思わなかったのは、そういや俺がずっと、知ろうとしなかったからだよな。
南に限らず、争いごとが得意でない東方は先に折れる方が負担が少なかった。
南相手にそれは、失礼以前にもっと、他の感情が先立つ。
あいにく、それに名前はまだ、つけられなかったが、胸の中が燻ったまま、自転車は住宅街の中に入ってきていた。

重くなってしまったペダルを何とか漕ぐと、東方は人知れず小さく息を吐いた。

「あ、この先の先が、俺んちだから。」
「ああ。」
2軒先でブレーキをかけて自転車を止めても、足だけついた南はまだ、離れようとしない。
「──あのさ、南。変でも俺、話ぐらいは聞けるぞ?」
つい癖で頭を撫でようと手を伸ばしかけると、南はびくっと身体を竦めた。
こんな反応は初めてで、東方も途方に暮れた。

「──あ、ごめんな。」
俯いたままようやく南が降りると、綺麗に花が植えられた庭から、南の母親とおぼしき女性が顔を覗かせた。
「あ、お帰り健。お母さん、健のケーキ取りに行ってくるから。─こちらが東方くん?いらっしゃい、こんにちは。」
優しそうな笑顔は南とよく似ていて、東方も自転車のスタンドを下ろすとお辞儀をした。
「初めまして、東方です。南君にはテニス部でお世話になっています。今日はお招きありがとうございます。」
「あらー、しっかりしてるのね。こちらこそ、健…健太郎がお世話になってます。どうぞゆっくりしていってね。」
母親は門を開けると中へ入るよう招いてくれた。
「じゃあ、健、行ってくるわね。お昼、東方くんの分もテーブルにあるから。」
「ああ。」
振り向かずそれだけ言うと、南はまた先に玄関へと歩いて行ってしまった。
もう一度お辞儀をしてから、東方も後を追う。 開いたままのドアをきちんと閉めると、南はしゃがんだままスニーカーの靴紐を解いていた。
「もしかして、南、誕生日だったのか?すまん俺、プレゼントとか全然─」
「いや、いいんだ。くれって言ってるみたいで嫌だったから、言わなかっただけだし。」
下を向いている南の表情は窺い知れなかった。
「でも、こういう時って家族水入らずで祝うんじゃないのか?俺、邪魔だろ。」
扉を背に預け、せめて夕飯の前にお暇しようかと東方が考えていると、蚊の泣くような声で南が何かを言った。
「─がしかたが、いいんだよ。」
「ん?」
聞き取れずに東方も隣りにしゃがみ込むと、悪いかと思ったが好奇心が勝り、南の顔を覗き込む。
「──親が、言ったから。あなたの一番大事な友達を連れて来なさい、一緒にお祝いしましょうって。」
「南──」
「だからここは、『そうか』でいいんだって!」
一瞬東方と視線を交わすと、見る見るうちに首まで真っ赤にさせ、南は膝に突っ伏した。
狭い玄関大きい男二人がうずくまっている姿は、自転車二人乗り並かそれ以上に滑稽だと頭の片隅で東方は思ったが、南と同じ視界で、彼の心に少しだけでも触れられたことが今は全てだった。
「─そうか、南、誕生日おめでとう。」
これは真実だと肌でも触れて確かめたくて、もう一度南に手を伸ばしかけ、引っ込める。
「うん、ありがとう。あ、飯食おうか。─東方どうかした?」
「いや。上がっていいのかな?」
茶化してはいけないと直感が働いて、言葉を呑み込む。
頬が熱いのは風通しが悪い場所だから、と言うには少々、気持ちが傾きすぎていた。



単純に、もっと南を知りたいという衝動に。


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