振幅 |
「ねぇねぇ雅美ちゃん。南ちゃんのこと可愛いと思う?」 放課後部室のドアに手を掛けたら、自分の名前が挙げられている。 常日頃から『言いたいことは相手の目を見てはっきり話すべき!』をモットーとしている、山吹中テニス部部長は、耳を疑った。 今すぐにでも、鍛え上げた下半身の筋力でその分厚い板を蹴破って、 発言者の首根っこをとっ捕まえ、先ほどの発言を訂正させたい衝動に 駆られる。 正しくは、自分の名字に対する形容詞。 梅雨の合間の晴れた空。 こんな時こそ部活だと、南はホームルームが終わるやいなや、今日は誰にも用事を頼まれないようにと、バッグを掴んで一目散にここへ飛んできた。 何故同じクラスである千石が先に着いて、悠々と話をしているのか、 深くは追求しなかったけれども、眩暈を覚えたのはこの季節特有の、 湿気を含んだ外気のせいだけではないはずだ。 「そういう千石はどうなわけ?」 自分と二人でいる時とは違う、相手を立ち入らせないような東方の 冷たい声で、南の意識は、入り組んだ脇道へとそれて行く。 誰だって生身がないところで面白半分に寸評会をされたら、自分を主張 する機会もないのだから、残るのは、弄ばれて尾ひれもひからびた、 抜け殻だけに決まっている。 南は今までにも、自分のいないところで、指導力であったり包容力で あったり、はたまた人間性に至るまで、それまでの努力を全否定される ような単語が、この部室で飛び交うのを耳にしてきた。 そのたびに歯を食いしばって、わざわざ部室から遠い棟のトイレに行き、 時間を潰しがてら気持を落ち着ける術も身に付けた。 上に立つ人間というのは、尊敬だけではなく、もれなくやっかみも 受けてしまう特典があるのかもしれない。 誰にでも好かれるような、当り障りのない行動が出来たらよいのかもしれないけれど、南は自分に嘘をつくのが苦手な人間だった。 苦手というより、嫌いであるから、意識せずとも他人にも正直である ことを強要するふしがある。 当然それを快く思わない部員だって出てくるわけで。 「え〜俺?可愛いんじゃない?すぐ怒って泣いて赤くなるところとか、 なんでもムキになるところとか、なんでも真面目すぎなところっ。」 話を自分に振られた千石は、いつもの飄々とした口調であっさりそう 返した。 部長南は今までこのテニス部において、忍耐力や洞察力はめきめきと、 ダブルスの技術力とともにレベルを上げてきたのだけれど、あいにく 「やぁ。」などと何事もなかったように入って行く演技力の項目だけは いつまで経っても超えられない高いハードルだった。 曲者揃いの部においてそれは致命傷に近い。 にも関わらずこういった ところを、よりによって最も見られたくない人にことごとく目撃されて 挙句の果てには受けいれられてしまう。 こうやって立ち聞きをしているのも立派な同罪だと思い直し、回れ右を しようと床に置いてあったテニスバッグに手をかけた。 東方の答えを想定して、ごく自然に結論が出たのに、何故か急に胸が 締め付けられて、頭を横に振った。 彼だけには一度も、脳が拒否するような言葉を発せられたことがなかったが、いかんせん今回のお題はたちが悪すぎる。 今度こそその場を去ろうとした南の耳に。 「って雅美ちゃんはどーなわけよ?」 本題を忘れてくれるわけもなく、千石が言い逃れは許さないといった 口調で東方に切り返す。 「さっきのさ、雅美ちゃんの代弁のつもりだったけど?」 千石の声はまるで何もかもお見通しといったようなもので、東方だけ ではなく、部員はその声色を耳にしたら最後。 観念せよという通告 代わりの、おもちゃか、はたまた餌を見つけた時の瞳の輝きつきで 恐怖も倍増なのだった。 「…おまえに嘘は通用しないな。俺も可愛いと思うよ南は。」 照れもなくそう言い放つ相方に、『冗談が通じる奴なだけだ!』と褒め 讃える洒落っ気を出す余裕は微塵もなく、南の手からバッグが滑り 落ちた。 通知表には毎学期ごとに、『学習態度が大変真面目です』と書かれる だけあって、教科書やら参考所やら辞書までぎっしり入っているそれは、 やけに派手な音を立てた。 「部長、入らないですか?」 後ろから壇に話し掛けられて、はっと我に返る。 可愛い後輩に話し掛けられて、部長の顔に戻らなくてはならないのだが、 日頃ストックされていない能力を引き出せという指令は、 難題を通り越して完全に無理だった。 アップする前からこんなに全身の細胞がフル稼働しているのは、教室からダッシュで来たせいだけではない。 原因にはとっくに気付いているのに、認めたら今までの南の意地とでも 呼ぶべきものが、滑り落ちたバッグとともに、砂で作った城であった ように、呆気なく崩れていく確信があるから。 脆いとわかりきっているものを自ら率先して『さぁどうぞ踏んで下さい。』 と言える余裕を、南の年で身に付けている方が末恐ろしいかもしれない。 今まで他の人には散々、揶揄を込めて『可愛い人』と称されてきた けれど、その人の声で、鼓膜だけでなく全身を通して、耳に、胸に 届くその言葉が、こんなにも、今まで否定してきた感情を覆すような 響きを持つなんて。 雨上がりの空の下、意味もなく新陳代謝を活発化させている身体から 地面に滴が滴り落ちる。 上気した頬を誰にも見られたくなくて、とっさにその場にしゃがみ込んだ南は、やっとの思いで両膝に手を添えて立ち上がろうとした。 触れた箇所が笑っているこの事態に、本日何度目かの自己嫌悪も忘れて 薄ら笑いすら浮かべたくなる。 「あ、太一悪ぃ…!」 頭を上げるとそこには、自虐的になった南が今一番顔を合わせたくない 人物が扉を開けて立っていた。 「東方、ごめん…俺具合悪いから部活よろしくって千石に…。」 進路を塞いでいるのは確かだったが、それだけではない後ろめたさと 気まずさとで、咄嗟に口から出たのは、南が苦手としているはずの、嘘。 彼の前では部長としての確固たる信念とか、男としてのプライドとか、 南が何にかえても貫き通そうとしていたものが、穏やかに、しかし 確実に溶かされていってしまう。 「熱でもあるのか?」 そう言って額に触れた相方の綺麗な指が思いのほか冷たくて、南は びくっと肩をすくめた。 一瞬で嘘だと見破っているであろう東方に、壇の手前気をつかわれているのかと思うだけで、自尊心が傷付く。 それと同時に、他の誰といても得られない安心感と、東方は自分だけに 優しくしてくれるという優越感にも似た独占欲が南を支配する。 部内では皆に公平に、誰にも頼らず独立していたいというモットーと 相反する、矛盾した脇道。 「…ほんっとごめん!」 気付くとその手とその誘導を振り切るように、部室をあとにして駆け 出していた。 「…なんでここまで来るんだよ!俺の相手するより、自分のテニス でも心配しろ!」 白い制服が汚れるのも気にせず、ぬかるんだ土を踏み締めて無我夢中で 走った揚句、南が辿り着いたのは、晴れた日によく東方と弁当を食べる 中庭だった。 東方から逃げていたはずなのに、気付いたら彼と一番一緒にいる場所へ 来るなんて。 こんなところまで相方が侵食してきているのかと、足元に広がる、踏まれても踏まれてもへこたれない雑草に目をやりながら、つい憎まれ口を叩いてしまう。 八つ当たりこのうえない南の台詞にも、 「相方の体調心配して何が悪い。」 形のいい眉毛を吊り上げた神妙な面持ちでそう凄まれては、今更しお らしく謝ることも出来ない。 「仮病に決まってんだろ馬鹿!」 「だから余計気になるだろ。」 東方は、息を切らしながら仰向けで芝生の上に倒れる南の横にそっと 腰を降ろす。 投げ出された南の手首をとると、 「この距離でこの心拍数っておかしいもんなぁ。」 などと脈を計りながら首を傾げる。決して南の気持を弄ぶような人間ではないのだが、時折南でさえ閉口するようなことを、本人は至極真剣にやるので、未だにその真意を掴むことが出来ないでいた。 「…大丈夫だから、それ、離せよ。」 「そうは思えないけど?」 「…。」 今日こそ部活に打ち込まなくてはと、決意してやって来たのはついさっき。 頭上に流れる雲をただぼんやりと見ながら、俺の気持もなんて移り気 なんだとため息を漏らす。 「南さん。聞いてたんだろ?俺と千石の会話。」 あくまでも優しいトーンで問い掛ける東方だが、それに騙されて顔を 向けたら最後。 安心しきって愚痴や弱音を吐き出した南を待つのはいつも、男として、部長としてのプライドをグラグラと揺する、東方の甘い誘惑なのだから。 「…だったら何だって言うんだよ?動揺してるの見て、さぞかし 面白かったんだろ?」 ここで首を縦に振るような東方ではないことをわかりきっていて、試す ような、それでいて縋るような質問を振ってしまう。 「…南こそ、俺のことからかってる?俺がいつ南を笑い者にしたんだ? …自分に関しては本当、嘘つきだよな。」 一番言われたくない人から、初めて脳が拒否するような確信をつかれて、 南は自分を庇うために、これまで小さな棘にも似た無数の痛みをこの人に 与えてきたのだと気付く。 「…じゃあ、真面目に、そう、思う…のか?」 「頼むから、俺の役割を奪わないでくれると嬉しいんですけどね?」 東方はそう言うと、南の横に大の字になった。 「…は?」 微かに指先が触れ合っているのは、彼の『至極真剣』なのか、それとも 偶然なのか。 その真意よりも、まだ息が上がっている自分の精神的虚弱ぶりに、また眩暈を覚える。 「いいじゃないか、俺にその可愛いところを見せ付けてやる位の部長さん ぶりを発揮して頑張ってるんだから、二人でいる時は、ただの可愛い 人に戻ったってさ。ね?」 「…馬鹿か。ほんと恥ずかしい奴…。」 瞳を閉じているのに、時既に遅しで、彼の張った罠に捕らえられていた のかもしれない。 それとも、これが天然ゆえの発言だったら、東方は女殺しどころでは済まないのかと思うと、南は彼の言う役割に甘えるのも気が引ける。 それでも自分の意志でなら、たまには脇道にそれてみるのもいいかなと 南はひそかに思い始めた。 嘘つきも、矛盾も許してくれるこの人の前でなら、ただ与えられるものに身を委ねて、自分の思うようにものごとを感じられる。 いつの間にか肩肘を張って、自分も周りも、型にはめることが一番と わざわざ気持の揺れる幅を狭めてもがいていたのかも知れない。 それでも傍にいてくれる相方に感謝しながら、これからは彼の言葉と 自分の正直な気持に向き合おうとも思った。 次に噂をされても、せめて抜け殻にユーモアくらいは残っているようにと。 |