'06ギリギリHappy Valentaine's Day! |
鏡の前でいつもより髪型を念入りに整えている弟に、兄は不思議そうに声をかけた。 「なぁ、もうそろそろどいてくれないか?大丈夫だよ、ちゃんと寝癖とれてるし。」 最近めきめきと成長中の弟は、日を追うごとに色気づいてきて、南の前にぐい、と肩を割り込ませては、ずっと指で毛先を弄っている。 「今日は何の日だと思ってるんだ?まぁ、最悪健はお母さんに1個貰えるからな。」 南に触られた後頭部を掌で撫でつけるように直しながら、弟は同情するように首を横に振った。 「何だよ?じゃあもう、俺のワックス勝手に使うなよ。調子いいんだからな、まったく。それ、結構高かったし…。」 ムッとした兄の売り言葉に、すかさず買い言葉が返ってくる。 「ケチ!そんなんだから、東方さんしか相手にしてくれないんだよ。どーすんだ?今日あっちがチョコ沢山貰ってたら?ああいう人は本命チョコひっそり貰えるタイプだぞ?健と違って大人だし。自分が優先されること、当たり前に思わない方がいいぞ?」 後ろからからかうようにして、整髪量の容器を取り上げようと伸ばしかけた手が、弟のひと言によって止まってしまった。 「え…優先、か…。」 弟にとっては寧ろそれはオマケのようなひと言だったが、腰に手を当ててうなだれてしまった兄をため息混じりに一瞥した。 南と東方はお互い気持ちを伝え合い、何となくそういう大事な関係、という雰囲気はあって、それでも自分達の関係は、安っぽい名前をつけるもんでもない、と少なくとも南はそう思っていた。 東方に女の子扱いされたこともなかったし、だからチョコレートを渡したりお返しする、そんなイベントも自分たちには関係ないとばかり思っていた。 だが本人同士には縁がなくても、生身は男、南がいるから敬遠してしまう、そう弟は言いたいのだろうか。 当日まで思いつかなかった南のように、東方も忘れてくれていたらいい。 一縷の望みを託しながらも、妹がいる彼のことだから男兄弟の自分よりはこういう行事ごとに敏感なのだろうか、もし貰ったらどうするのだろうか、そんなことばかりが過ぎっては消えていく。 縁がないとは言い切れないのだ、何せ自称一番近くにいる南が、一番いい奴だと思う男なのだから。 己の鈍さをこんな日に痛感することになろうとは。 ため息で曇った鏡の向こうには、思うようにヘアスタイルが決まらない、情けない顔の南がいた。 南の様子がいつもと違う。 それに気付けるのは、自称南のことを一番傍で見ている自分だから、と東方は勝手に思っているのだが、時々その原因までが解明しないところがある。 大抵は東方とその周囲に関わることだったが、興味のないことが大半で、それだけに南や第三者、例えば千石であったり、に指摘されて初めて合点が行く、ということもしばしばだ。 しかも、東方から言わせれば「それがどうした?」というとるにたらないことで、だから余計に南は面白いなぁと、笑いを堪えるのが必死だ。 今日もそうなのか、と観察してみたくとも、少しばかり事情が違っていた。 避けられているわけではないのだが、南は極端に接触時間を短くしようとする。 朝は昇降口で会うなり、東方が声をかける前に「おはよう。」だけ言い残して、まだ踵を踏んづけたままの上履きを引きずるように、転びそうになりながら階段をのぼって行ってしまった。 休み時間、クラスの違う南が教科書を借りにきたので、廊下にあるロッカーに誘導したが、南は東方の右隣りのロッカーに、自分の左肩を押し付けるようにして立ち、決してその中を覗こうとはしなかった。 扉がついているのだから、南の位置からでは反対を向いても中は見えない。 それ以前に、極力無駄な物は置かない東方のそこはいつでもきっちり整頓されていて、よほど予習に切羽詰まっているのか、持ち主が手渡しする前にノートがひょいと奪い取られていく、そんなこともよくある光景だったから、東方は首を傾げた。 「はい、南。」 後ろ手で受け取ろうと腕を伸ばしてくる南に、仕方なく付き合ってそこに目的のものを押し付けた。 「あのさ…。」 「サンキュー、今日はおまえ地理ないよな?昼休みに返すから。」 それだけ言うと南はそそくさと自分の教室に戻ってしまう。 極めつけは、昼休み。 たいてい食堂で顔を合わすのだが、東方の正面でパンを平らげるとすぐに、用がある、と言って席を立ってしまった。 「南に何かしたの?」 「いや、身に覚えがないから余計、たちが悪いなってさ。」 後ろ姿を一瞬目で追うと、東方はバッグを開けて南に返してもらった教科書をしまおうとした。 「あ、貰ったんだ。照れちゃってるんじゃない?」 右脇から視線を感じて振り向けば、一緒に昼食をとっていた千石が、東方のバッグの中の綺麗なラッピングを指差している。 「これは朝、机に入ってたんだ。」 「へ〜南って案外マメなんだな。朝早く来て先回りとは…健気だねぇ。いいなぁ雅美ちゃん、愛されてるなぁ〜。」 千石は両手を頭の後ろで組むと背もたれに身体を預けながら、うんうん頷いている。 「…何の話だ?」 「そっちこそ、何の話?」 二人は顔を見合わせた。 「だから、南に貰ったんでしょ?そのチョコ。」 「なんで俺が南から貰うんだ?」 「本気で言ってるのか?東方さんよぉ?」 笑いながら詰襟を掴み上げてくる千石の手が以外に力強く、東方は軽くむせた後、肩を押し返した。 「南なりに気、遣ってるんじゃない?的外れだけど、野性の勘ってやつで。」 「どうしてそうなるんだよ?…悪い。」 東方は少し声を荒げた後、周囲を大きな目でキョロキョロ見回し、手で口を押さえる。 筋道の通らない話し方は、東方を苛々させる。 南の唐突な言葉には東方なりに理解しようという気も湧くが、特に気長でもなかった。 それでも千石の意味深な喋りには、得てしてそこに正解があるから、下手にへそを曲げるようなことも言えなかった。 「例えばほら、ああいう子がいる場合とかね、そういうの見越してるんじゃない?」 ひらひらと千石が手を振った先には、こちらを恥ずかしそうに窺っている女の子がいる。 つられて東方も顔を向ければ、ばっちりと目があった。 途端に視線を逸らされてしまう。 普通に見ているつもりでも、目付きと高いところから見下ろす威圧感からか、凝視されているとよく誤解を受けることがあった。 今回もそういうことなんだろう。 だからと言って何も悪いことはしていないのだからと、東方が特に意味もなくそのまま眺めていると、今度は千石の方をちらちらと上目遣いで見ている。 さすがに東方にもその視線の意味はわかった。 「あ、悪い、俺もそろそろ行く。」 東方は椅子を引くと、立ち上がる。 「違うって、この場合用があるのは東方の方。邪魔者は、失礼するよ。お先に〜。」 上から周りより一つ飛び出た頭を押すと、千石は今日に限って東方の分までトレーを持って行ってしまった。 一直線にこちらへ向かってくる靴音に、立ち上がる口実を失った東方はただ、南のことを思い浮かべていた。 悪い予感というのは当たるものだ。 困ったように笑っている東方を見て、引き返そうにも南の足は石にでもなったかのように動かない。 教室に戻る気分でもなくて、さてどうしようと渡り廊下でぼんやり校庭を眺めていたら、不思議そうに南を見てくる東方のことばかりが浮かんだ。 自分がいたら、東方に渡される物も渡されないだろうと、南なりに気を遣ったつもりだったが、さすがにわざとらしかったかもしれない。 演技や嘘が苦手だから、とっくに東方には行動が見破られているだろう。 あのきょとんとした目からするに、原因までは究明されていないのだろうが、何故だか逆に置いてきた南自身が、後ろ髪を引かれる思いがした。 手元の時計を見ればまだ、早々に切り上げてきた分、話をする時間は充分残されていて、ただそれだけで足取りが軽くなる。 そんな矢先に飛び込んできた、知らない女の子と東方の姿は、いかにも正しい2月14日の図で、南は言い知れぬ疎外感にただ、二人がいるテーブルの傍で立ち尽くすことしかできなかった。 先に気付いた東方は「もう少し待ってて。」と目で合図してくる。 東方の隣りに俯くようにして立っていた女の子は、相手の視線を辿って小さく「あ。」と呟いた。 頬を染めて急ぎ足で南の横を通り過ぎる時に、頭を下げながら「すみません。」と蚊の鳴くような声で謝る様子からして、学年が下の子なのだろう。 その胸にはチョコレートらしき可愛い箱が抱かれていて、謝るのはこちらの方なのにと、南は頭を掻いた。 「あ〜…悪かったな。すまん。」 「…いや、別に。南が謝ることじゃないだろ。」 一瞬間を空けて、そう返す東方の声はどこか冷たかった。 「それよりどうした?何か用があったんじゃないのか?」 『それより』 やはり東方にとっては、特に意味のない日だったらしい。 もし南がここに来なければ、東方の手に渡っていたのだろうか。 自分がしてきたことは、つまりはそれを手助けする行為。 余計なことをして、と怒っているのだろうか。 それでもどこかで、届かなかった気持ちに安堵するのは最低かもしれない。 「『それより』、じゃねぇだろ?おまえは、ひとの気持ちを何だと思って…!」 八つ当たりに近く東方に投げつけた言葉は、嫉妬という言葉とともにそっくりそのまま南に跳ね返ってきた。 収拾がつかないま逃げ出すようにして駆け抜けた渡り廊下。 厳しく吹き付ける風が南を責めているようで、それでも矛先違いの怒りから火照った顔はなかなかもとに戻らなかった。 南は空回りな遠慮を続けていたらしい。 こういう行事ごとに疎い彼のことだから、千石あたりに入れ知恵でもされたのかと思ったが、どうやら違ったようだ。 既に一回、ダメージ喰らっているのに損な役回りだ、そう肩を落としたくなるから、東方は本当のことは黙っておくことにした。 それぐらいはバチは当たらないだろうと。 南も気まずいだろうから、と席に座ったまま本を読んで少し時間を潰す自分には、我ながら甘いな、と東方は苦笑する。 今日は先に帰られているのかもしれないな、と、習慣になっている南のクラスへ足を伸ばせば、誰もいない教室で不貞腐れながら頬杖をつき、東方を待っている彼がいた。 「遅い。」 「ごめん。」 謝るべきなのは南の方なのに、ぶっきらぼうに、それでも律儀に待っている姿に、そんなことはどうでもよくなってしまう。 「俺は東方に、チョコあげられないんだぞ、持ってないし。」 「うん、俺も南に貰えるなんて思ってなかったぞ?」 「でも、あの子には貰うチャンスだったろ?それなのになんで、『そんなことより』って言ったんだよ?」 それだけ言うと、南は顔を突っ伏してしまった。 こういう態度は、謝るタイミングを掴めずに焦っている証拠。 前の席の椅子を引くと横向きにそこへ腰を下ろし、東方はささくれに触れるようにそっと南の頭を撫でた。 「じゃあ、言い換えようか?南にチョコを貰おうなんて思ってなかったよ?」 「…。おまえ、鈍感だもん。」 びくっと震えた肩に、ちょっと目論んでいた仕返しも台無しになってしまう。 「だって俺はあの子から、『南にチョコレート渡して下さい』って頼まれたんだぞ。だから『そんなこと、自分で本人に伝えないと、意味がないんじゃないの?』って断ったんだ。」 「え…。」 ゆっくりと顔を上げた南は伏し目がちで、ただただ恐縮している様子だった。 「俺がどんな気持ちしたと思うんだ?さすがに泣かせるわけにはいかないしな。どっちが鈍感なんですかねぇ、南?」 「そっか…俺が悪かったな、すまん。」 頑なな態度を崩さなければしばらく秘密にしておこうと思っていた真実に、素直に詫びる南はただしゅんとしおらしく頭を垂れていて、東方の心を溶かすにも充分だった。 「まぁ、いいよ。妬いてくれたみたいだし。」 東方はそっと身を乗り出すと、南の唇を掠め取った。 「…バカ!そうは言ってないだろ!…ったく。」 南のわかりやすい態度は自分でなくても読み取れるかもしれない。 「これで我慢しとけ!」 赤くなりながら同じ箇所を押し付けてくる姿に、南の予想外の行動に動揺させられるのは自分だけだと、東方はもっとも甘いプレゼントに笑いを堪えながら、再び瞳を閉じた。 |