何もしない時間(前編)
何もしない時間と、何も感じない時間は、今の二人ではイコールで結べない。
何もしない時間ほど、君のことを考えている。



「へ?」
仲間の言葉に、バイト先に着いた南は、ロッカーから取り出しかけていたエプロンを床に落としてしまった。
「だーかーらー!こないだ日曜代わってもらったろ?その代休、今週末でもいいかって聞いてるんだ、俺は。」
大袈裟に溜息をつきながら、彼はエプロンを拾い上げると、大きな左手で叩いた。
「…何、その顔?」
右手を差し出しながら、すっと流れるような眉の間に力を入れて尋ねてくる彼は、一月程前から入ってきた人物。
180センチ程ある南より、裕に5センチは高い背丈、一見強面で低い声の彼から、たまたま同じシフトになった日に代わりに出てくれるよう頼まれたのが2週間前。
頼まれるといやと言えない、困った人を放ってはおけない性格は、長年部長を務めて尚更強まった傾向にあったが、困った時はお互い様という対策は、あいにく南には施されないことの方が多かった。
それに加えて彼の外見やら話し方からは、一度一緒に仕事をした限りでは、失礼ながらも律義な内面は見受けられなくて、南は思わずきょとんと見つめ返してしまったのだった。
一番引っ掛かったのは、彼が指定した曜日だったりもするのだが。
その日は平日授業で忙しい同居人が、大抵家にいる日であるのだから。

「あーいや、何でもない。ありがとう。」
軽く一礼して受け取ると、ぎこちない手つきで紐を結ぶ。
「俺の言うことが意外って顔だな。…てお前へったくそだぞ、後ろ。」
彼は南の背後に回ると、乱暴な手つきで結び目を解いた。
「ん?…今週の日曜か…。」
「日曜空いたら嬉しくないのか?おまえ、大体バイト入れられてるだろ。俺のせいで余計久々の休みになっちまったんだし。変なヤツ。」
口ぶりとは裏腹に、どうやら労わられているらしい状況に、南は落ち着かなくなる。
正しくは、見た目から判断してしまったことを咎めるわけでもなく、疑問と厚意を直球でぶつけてくる人物に、同じく一度しか仕事をしていない自分を見抜かれているという現実に。

元々表情が出やすい南は、嘘をつくのも下手であるし嫌いである。
と同時に、自分の発言で周りが傷付くことも嫌いである。
相手が大切であればあるほど、その間の葛藤の繰り返しで、結局は、黙ってしまうことも多かった。
それを怒っているのかと気遣われるのも苦手だった。
そこを汲んでくれて、あえて南には黙っていてくれる人が頭をよぎった。
言いたいことを言いよどむどころか、最近ではその人を前にすると言いたいことすら頭に浮かばない南だが、それでも自分達の濃密ともいえるような繋がりを、知られたくはないとも思った。

綺麗に整え直した蝶結びの羽の部分を二重に括ると、南の背中を叩き、彼は近くにある椅子を引き寄せた。
反対向きに跨がると、背もたれに肘をつきながら南を見上げてくる。
「あ、サンキュー。いいよ今週で。」
完了の合図を受けて振り返った南は彼にぎこちない笑顔を向けると、ロッカーから携帯電話を取り出し覗き込んだ。
「じゃ、俺からマネージャーに言っとく。南、デート?」
「え…?いや、違う…そういう人もいないし…。」
デート、という言葉に、南の顔は強張った。

「へーそうなんだ。意外。ヒガシカタって子が好きなんじゃないのか?」
「…なんでそこに東方の名前が出てくるんだ?」
一番呼ばれたくなかった名前が彼の口に乗せられる。

「いやだって、最初一緒に入った時…つーかこないだだけどさ、やたら名前出てきたから。」
「…ただの友達だよ、東方は。そろそろ行かないか?」
それ以上見透かされるのが恐くなって、南は会話を打ち切るように携帯を強く閉じた。



東方が遅くなることは、バイトが始まる前に受信したメールで知らされていたので、南は久々に寄り道をして帰った。
鍵を開け、誰もいない真っ暗な部屋には寂しさを覚えたが、今日に限っては「お帰り。」の声がなくてよかった、とも思った。
しばらくすると東方が帰ってきた。
南は週末の予定を訊こうと、東方の部屋のドアをノックした。
「どうぞ。」
お互い二十歳を過ぎた男なのに帰りの時間を報告したり、こうして入室許可を得るのは単に、同居人を気遣うためなのだと南は心の中で自分に言い聞かせていた。
長年の付き合いで、相手はあからさまな思いやりをくれるタイプではないと認識していたが、それは己が鈍いせいだということにしていた。
そして、過敏になっているのは、疲れのせいだとも言い聞かせていた。

扉を開けると、剥き出しの広い背中が視界に入って、南は思わず謝った。
「すまない、着替え中だったんだな。」
「いや、こっちこそ部屋に直行してすまなかったな。服が煙草くさくなったから…。」
頭から部屋着をすっぽりかぶると、東方は髪の毛の匂いを気にしている。
二人とも吸わないのだが、今日は飲み会だったらしく、南が近付くとほんのりアルコールの香りもした。
よくよく考えなくても、出会った頃から数え切れないほど素肌は見てきて、その前に同性同士なのである。
向こうは、南がすぐやって来たことに、何かあったのだろうかという方に意識があるようで、ホッと胸を撫で下ろした。
「風呂、入ってくれば?あ、匂いは仕方ないから、そうじゃなくって、疲れてないか?」
「南だって疲れているだろ?どうした?」
飲酒できる年齢に達したばかりだったが、東方は体質的に南より強いらしく、あからさまに酔っ払っているところを見たことがなかった。
それでなくてもこの頃隙が見つけられなくて、息苦しい南である。
今の顔は見られたくなかったが、聞き逃してくれる素振りは見受けられず、おずおずと話を切り出した。

「あー…、今週末って、予定あるのか?」
「特にないなぁ。南はバイト?何かチケット取っておこうか?」
きっと先に予定を告げれば優先されてしまうであろうことを試すかのような訊ね方に少し胸が痛んだが、案の定の東方の優しさに、胸が躍るのも事実だった。
「いや、俺休みになったんだ。」
南がそう言うと、東方の口角が一瞬上がったので、視線がそこから外せなくなる。
「へぇ、そうか。よかったな、毎週出ずっぱりだったもんな。」
東方は平日学校帰りに家庭教師のバイトをしていて、南は授業の合い間を縫ってコンビニとレンタルビデオ店で掛け持ちで働いている。
そのせいか余計、東方は南の身体を気遣う。
「あぁでも、たまの休みだと何をしていいのかわからなくってさ。」
「じゃあ、ゆっくり休めばいいんじゃないか?」
予想通りの答えが返ってきて、それでも何か物足りなさを拭えないのは、何時の間にか東方に対して我侭になってしまった証なだけであると、南は思い込みたかった。

「そうだよな。うん。」
「で、何が食べたいんだ?この中だったら大体いけるから。あと、南がおすすめのDVD借りてこいよ。」
こくんと頷いた南を満足気に見つめると、東方は棚から料理の本を取り出し手渡す。
「…。」
「ん?ピザでも取るか?ビールに合うかもな。だったらツマミ系かな。」
大きな目を細めて優しく笑いかけられて、南はこの、奇妙な関係を疑問視する思考回路を少しだけ、封印してしまおうと思った。
きっと偶然の休みもいつもよりほんの少しだけ、東方の好意に甘えてもいいというサインなのだ、と。



何もしない時間を超えればきっと、君の温もりに敏感な自分も、超えられる…?


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