何もしない時間(中編) |
日曜日、南が起きてリビングへ行くとまだ東方は起きていないようであった。 彼の言うようにゆっくり眠っていたかったが、昨晩は先に部屋に戻ったものの、どうにも目が冴えてしまってなかなか寝付けなかったのだった。 冷蔵庫からペットボトルを取り出し水をグラスに注ぐ。 思いの外喉が渇いていたようで、一気に飲み干した。 寝癖のついた頭を掻きながら鈍い足取りでソファーまで歩くとそこへ倒れ込んだ。 背中に何かが触れて手繰り寄せると、置き忘れたままの東方の部屋着が置いてあった。 アルコールが欲しかったようで、テーブルにはビールの空き缶が何本か置いてあった。 いつも東方は寝る時はパジャマに着替えているので、風呂に入る前に脱いだそれを自室に持ち帰らなかったようだ。 ふと手にした物を広げてみれば、明らかに南の手持ちの衣服とは大きさが違って、そういえばこの休日を与えてくれた人物と東方は同じぐらいの背丈だということに気付いた。 彼は特にスポーツをしないと言っていただけあって、縦にばかり伸びたような印象なのだが、この服の持ち主は身体を鍛えることが趣味でもあるから、横幅もかなりがっしりしている。 昔から東方が傍にいると誰よりも落ち着いた南には、何よりもあの物腰とその大きさが安らぎとなっていた。 広い肩幅も、厚い胸板も、綺麗に筋肉のついた腕も、何でも掴めそうな手も、それは全て東方の一部として当たり前に存在していて、この服の下に隠されている、とは意識したことがなかった。 その布切れ一枚の境界線を気に留めることなど、「ただの友達」同士ではあるはずもなく、一緒に住み始めてしばらくは、東方は南がバイトから帰っても、風呂上がりに上半身裸ということはよくあって、南も一緒になって涼んでいたりもした。 いつからか東方も自分も、互いの素肌を見せなくなったが、それは南が東方へ向ける己の視線に意識を持った頃と同時だったように記憶していた。 そこにあって、見えないベールで包み込んでくれていた、内面と一体化していた筈の存在に、安心とは違う何かを覚えた頃だったかもしれない。 バイト先の彼は言葉遣いも態度も乱暴で、この前の日のことがなければ南にはあまり得意な人物ではなく、正直慣れるには時間がかかりそうなタイプだ。 それでも歯に衣着せぬ物言いに対して嫌気がささないのは、口に出すこととそれに伴う行動に、ずれがないからだ、と、南は交代してもらった後になって気付いた。 それは裏返せば、今の南と東方に足りないものでもあり、互いに自ら息苦しさの種をばら撒いているような現状があるのだ。 過剰な気遣いと約束は、互いの触れられたくない、胸に芽生えた感情を、予想外の衝撃で揺り起こさないようにという、暗黙の予防線。 空気のような、隣りで楽に呼吸できるような、対等で、口に出さずとも読み合える、そんな良きパートナーとして東方を捉えていた、ように南は思う。 「思う」というのは、改めて彼のことを深く考えたことがなかったからだ。 意識することのなかった東方の仕草に、言葉に、声色に、体温に。 いつかの夏の日、いつものように風呂上りに二人寝転んで、とりとめもない話をしながら、偶然触れ合った肌と重なった視線に、潜んでいた熱を見つけてしまったあの日から、南は痛いぐらいに無意識を装っている。 南にはあれが直接の引き金になったのか、今でもわからない。 それでも少し経ってから、東方の考えていることも、素肌も、見えなくなった。 然を装いながら、未だに心地よい曖昧さの距離を測りかねているのを、不自然極まりないことだと思っているのは、恐らく東方も同じである。 週始めに着替え中に南を部屋に入れたのは、彼なりに二人の間の当たり前を、少しでも取り戻そうとしていたからであろう。 突然取り払われた境界線に南は咄嗟に対応できずにただ、謝ることしかできなかった。 そうしてまた、嘘を重ねるたびに、戻れない過去と消せない感情を憂えるのだった。 知らない間に握り締めていた東方の服を綺麗に畳み直して、南は再び台所に向かった。 今日の昼食はこの前の流れでそのままピザでも取り、夕食は東方が作ることになっていた。 どんなに頭の中がショートしそうでも、身体は正直で腹も減るものだ。 昨晩東方が何かを食べたらしく、流しに食器が置いたままになっていた。 まずそれを洗うかと南はエプロンをつけた。 衛生面からというよりも単に水の切り方が荒いのか、いつも終わった後に服に飛沫が散っていて、みかねた東方が勧めてくれたのだった。 当人は、日本の住宅機能にそぐわない、規格外の体格をしていて、実際料理をしている時にもやり辛そうなのだが、彼が使い終わった後のキッチンは整然としている。 何かをしながら同時に片付けもできるのは、南からすれば凄いとしか言いようがなかった。 悔しいから口には出すまいと思っていたとしても。 泡を水で洗い流しながら、南はふと、東方は自分のことを誰かに訊かれたら、何て答えるのだろう、と考えた。 昨日の晩から思考はそこで堂々巡りをしていて、その答えを知って自分は何がしたいのか、それは東方本人の口から聞いてみなければどうしようもないとわかりつつも、今の状況ではそんなことができるはずもないと、ため息をついた。 「おはよう。後ろ解けてるぞ。」 急に東方の声がして南が振り返ると、目と鼻の先に思い浮かべていた人物の顔があり、慌ててまた前に向き直った。 「あ、おはよ…。…ありがとう。」 「手、塞がっているしな。どういたしまして。」 腰を折り曲げるその人の手付きは優しくて、少し前と同じ状況でも南の肌へ直に伝わる感覚は小さい。 それでも心臓が跳ね上がるようで、南は熱くなった頬を冷ますように、濡れた手の甲でそこを拭った。 「なぁ、朝は南が何か作ってくれるのか?俺も手伝おうか?」 右肩越しに声を掛けられて、折角の申し出を上手にかわすことが出来ない。 「いいから!あっちで新聞でも読んでいてくれよ!」 背中を押した掌も、いつまでも熱かった。 |