クッキーの崩れる音(前編)
うかつに「好き。」という言葉を互いが口にできない日々で、それでなくとも意識的に時間の共有を避けている。
彼が無意識に「いい匂いだったな。」と言ったそのセリフに、東方も「そうか?」とだけ返事をした。

「先に寝るな。明日、早いから。」
バイトがない日の東方は、南の帰りを待ってから眠りにつくのが習慣だった。
「あぁ…。」
風呂上りに髪の毛を無造作に拭いていた南は、バスタオルを頭にかけたまま、前髪の間から東方に視線を向けた。
名残惜しそうな南のそれを断ち切るように、膝に手をついて立ち上がる。
さすがに授業のことを出せば、真面目な彼がそれ以上言ってくることもない。

「音、そのままでいいからさ。この後、スポーツだろ?」
テレビではニュース番組が流れている。
「うん。おやすみ。」
東方を振り返ることなく南は、ローテーブルに突っ伏してしまった。
だるそうに右腕だけがだらんとそこからはみ出て、手探りでチャンネルを変えている。

そういう南を見るのは久し振りで、間接的に「ずるい」と言われているように感じた。

責められても仕方ないと思う。
南を、そういう目で見るようになってから、優しいふりをして逃げてばかりの自分は、汚い、と。

だから、感情の表現が素直な南を「ずるい」と思って今夜は眠りにつくことにした。

好きな人の、いちばん好きなところに蓋をして、堰き止めているのは東方。
だったら、感情の起伏が乏しくて「ずるい」と南から思われることぐらい、何でもない。

そう、言い聞かせて。



「先生、あの入浴剤、どうでした?」
南が「いい匂い。」と言ったのは、東方がバイトで家庭教師をしている男子高校生が、彼女から貰ったそれを、お裾分けしてくれたものだった。

妹がいるものの、実家を出てから何年か経つ身としては、可愛い雑貨には滅法疎かった。
いつもは雑然とした部屋の、教科書やら参考書がかろうじて絶妙なバランスで積み上がっている机の上に、不似合いな綺麗な包み。

休憩の合い間に何気なく、「彼女に貰ったのか?」と話題を振ってみれば、照れ臭そうに語り出す教え子は、東方にとって可愛い弟のようだったから、「よかったな。」と目を細めた。

「あぁ、好きな匂いだって言ってた。ありがとうな。」
「先生、そのミナミさんって人のこと本当に好きだって、顔に書いてありますよ。やっぱり本当は彼女なんでしょう?」
ジャケットのボタンを外そうとしていた手が、止まった。

「こらこら、詮索はよしなさい。」
話題を変えようとその頭を撫でてみたが、純粋な好奇心は時に凶器だ。
「じゃあ、どこで買ったか教えてあげませんよー!」
正直、東方にとってはそれがどこの店の何であってもよかった。
彼が彼女に勉強の疲れをこれでとって、とプレゼントされたことを聞いた時点で、頭の中で相手を南に置き換えていた。
ただ、南がそれを「好きだ。」と言った時点で初めて執着しただけ。

「…参ったな…。」
用意された椅子に腰掛けると、尻尾を振りながら身を乗り出してくる大型犬。
何とか餌を与えなければ、今日の勉強に響きそうだ。
バイト代を貰っている以上、適当にやろうという選択肢はなかった。
半分は保身の為。

両腕を組んで、天井を見上げる。
無邪気な視線が、刃のように胸をえぐる。

「別に、彼女ってわけじゃない。ただ…。」
ここで時間を浪費するわけにはいけないから、何とか取り繕っているだけだ。
そう己に言い聞かせて、重い口を開いた。
「何と言うか…。」
机に肩肘をついて深く息を吸う。



「かけがえのない人、だな。」



思わず口をついた言葉に、東方は耳を疑った。
「東方先生、俺にももっと、そういう優しい声で喋って下さいよー!」
茶化してくれて助かったと、両手を組んだ上に顔を埋めながら、ため息をつく。

もっと複雑で入り組んだものだと思っていたそれは、呆気ないほど明白だった。
こんな姿をこれからも、当の本人には見せられないのだと思うと、東方は酷く惨めな気分に陥った。



何とか平常心でその日の予定をこなすと、教えてもらった店で目的の物を買い、家路を急いだ。
あれほど気まずかった二人きりの空間へと。



こんな時だけ南の笑顔に癒されたいなどと思うのは、やはり「ずるい」のかもしれない。
ドアのノブを開ける手が、無性にその温もりを求めていた。


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