クッキーの崩れる音(中編) |
「お帰り。早かったんだな。」 シャツの襟を立てた急ぎ足でも、冷えたアスファルトから忍び寄る季節。 待っていたのは、好きだという匂いを纏った南だった。 脱衣所からぽたぽたと道標ができている。 「ただいま。あぁ…。すまん。」 足元を見ずに踵を擦り合わせて靴を脱ぐと、東方は慌てて視線を逸らした。 帰宅予定のメールをすることも、この時間の南の行動も、すっかり頭から抜け落ちていた。 「いや、ちょうど出たところだったし。鍵忘れたんだろ?珍しいな、おまえにしては。」 腰にかろうじてバスタオル一枚を引っ掛けた姿は、湯上がりにしても寒々しい。 「たまには、な。ありがとう、南。ちゃんと拭かないと風邪引くぞ。」 火照った顔を隠すように襟をかき合わせると、大股で部屋へ急いだ。 電気もつけず、服が皺になるのも構わずにそのまま畳に仰向けに寝転んだ。 顔の上で両腕を交差させて瞳を閉じる。 ジャケットのポケットの中で、スペアキーが鈍い音を立てた。 東方はしばらく暗闇の中でじっとしていたが、遠慮がちにドアをノックをしてくる音で身体を起こした。 「東方、具合、悪いのか…?」 「いや、ちょっと疲れてただけだ。」 扉を引き顔を覗かせると、いつも通りの南がいて、そっと胸を撫で下ろすと同時に、チクリとそこが痛んだ。 「そっか…だったら、おまえもあの風呂に入るといいよ。そっちこそ、風邪引き始めてるみたいだし。ちゃんと、温まらないと悪化するぞ。」 子供扱いの仕返しとばかりに悪戯っぽく笑う南に、つられたと見せかけて口角を上げるも、どこか違和感を感じる。 「え?そんなことないと思うが…。」 「だってさっき、声が掠れたからさ。俺の名前、呼んだ時。」 「はは、気のせいだよ。まぁ、忠告通り気をつけるからさ。」 話を打ち切るように背を向けて、東方はラックの引き出しから着替えを適当に取り出す。 「…わかった。」 少しがたついたそこを、軋ませながら押し戻し南を振り返れば、何か言いたそうな眼差しに捕えられる。 「あぁ。ありがとう、心配掛けてごめんな?」 相手の引き際のよさに一抹の不安を覚えるのは、何も東方だけではないらしかった。 ものわかりのいい南よりも、お節介と感じるぐらいの南を好きなのが東方だとしたら。 優しいだけの東方よりも、屁理屈を捏ねてでも自分の意見を言う東方を慕うのが南なのだから。 換気扇のおかげで既に冷たいタイルに背中を預けると、途端に玄関先での南の姿が瞼の裏を掠める。 それは紛れもなく、欲情という、代名詞が見つからないものだった。 何も今に始まったものではない。 シャワーを捻ると熱い湯が頭から爪先まで滴り落ちる。 心地良い、全身に染み渡るはずのそれ。 ふとバスタブの縁に腰掛ければ、鼻先を掠める匂い。 偶然教え子がくれただけ。 偶然南がいいと言っただけ。 ただ、喜ぶ顔が見たいから。 それなのにもう、南の匂いとして刻み込まれている。 ここに浸かってしまえばもう、全てを沈めるしかないと思った。 もう充分溺れているというのに。 最大限まで水量を増やすと、東方は渦を巻いて排水溝に流れていくそれをぼんやりと見つめた。 目を開けているのも辛い状態で浴室内を見渡せば、視界はぼんやりと曇っている。 南もまた、東方にとって、代わりの利かない人なのだ。かつて訊かれて、一晩頭を悩ませた答えが、重なる。 曖昧さを保つ身体とは裏腹に、心は恐ろしくなるほど正直だった。 名前のつけられない関係よりも、今この腕に彼の温もりを感じられないことの方が、はるかに切実な問題なのだという現実にただ、押し潰されそうだった。 左手で縁に掴まり、もう一方で湯をすくう。 指の隙間から大切な何かが零れ落ちていくのを、もう止める術は見つからなかった。 心地良い距離。 心地良い温度。 嘘と引き換えに手に入れた、過去と同等で結べない今が。 |