クッキーの崩れる音(後編) |
風呂から上がりキッチンへ戻ると、南は今夜も、興味のないテレビをぼんやりと眺めていた。 冷蔵庫を開けてミネラルウォーターの入ったペットボトルに手を伸ばせば、ふいに肩に重みを感じる。 それが何であるか、一つしか考えられずに、東方は振り向くことができずにいた。 「南も水、飲むのか?」 飛び出しそうになる声をかろうじて飲み込み、息を深く吸えば、ひゅう、と嫌な音が立つ。 「ちゃんと、湯船に浸かったのか?やけにシャワーの音がザーザーいってたぞ。」 肩甲骨あたりに押し付けられた顔のせいで、南が喋るたびに肌の上を震えが伝う。 「あぁ、ほら、匂いするだろ?」 首から襟足のあたりを指でバサバサと掻き上げれば、本当にそれを嗅いでいるらしい南の、生温かい息が吹きかかって、東方は硬直した。 長い間開放していたことを警告する音が鳴り、我に変えるとボトルを一本掴み、後ろ手にドアを閉める。 蓋を捻って口に含むと、乾き切った東方の喉がゴクリと鳴る。 目を伏せていても、指先や口元、喉仏に視線を感じ、生きた心地がしなかった。 「髪の毛からしか、しないから。普通、頭までは浸からないだろ。」 誤魔化すように出る間際に洗面器一杯で浴びたそれを指すのであろう、南の鋭い指摘。 「せっかく勧めてくれたのに、悪かったな。あんまり長湯する気にもなれなくてさ。」 怒鳴り声が返ってくるのを覚悟で、慮るようにそう言えば、次の瞬間耳に入ったのは、意外にも消え入りそうな疑問符だった。 「俺って…やっぱり汚い、のか?」 「どうした?…酒飲んでるんだろう。明日休みだもんな。」 元から東方と違って体質的にも弱い南が、家で自ら進んでアルコールを口にしているのを見たことはなかった。 大らかなようで案外神経を張り詰めていることが多い彼は、人の前で弱音を吐きたがらない。 たまに、二人揃った休みの前日には、テレビを見ながらくだらない話をして笑い合い、そのまま寝てしまうこともあった。 東方が差し出した缶ビールを手にし、ポロッと愚痴を零してはバツの悪い顔になりながらも、最後には笑顔で「ありがとう。」を言ってくれた夜。 東方はただ黙って頷くことしかできなかったが、肩を貸すだけで自分までも強さを分けて貰える気がした。 自分で決断を下す彼の逞しさを目の前に、自分だけに曝け出してくれる弱さも目の前に、優しくなれる気がした。 例えそれが無償の親愛という名の元にひた隠した、虚栄心の満足にすぎなくとも、南の傍にいられるのならば。 今でも趣味で続けているテニスも、最近は忙しさでままならないようだった。 誰よりもサインに気付けると自負していたのに、誰よりも先にサインを見過ごすふりをしていた最近。 そんな飲み方に追い込んだ張本人が、長袖のTシャツの裾を引っ張り俯く南の姿に、舐め回すような視線を注いでいるのだ。 「汚い」となじられるのは自分の方こそだ、と東方は喉元まで出かかった。 南の形容したいそれとは、違う。悲しいほど。 「誤魔化すな。」 「何が…まさか思春期の女の子じゃあるまいし、南の触ったものが嫌だなんて、あるわけないだろ?そんな潔癖だったらそもそも同居なんか…。」 「嘘、つくなよ…っ!」 背中に衝撃を感じ、一瞬目を閉じる。 よろよろと体勢を立て直しながら薄っすらと瞼を開けば、縋るように両腕にしがみついてくる南の、沈痛な面持ち。 ほのかに香るアルコール。 久々に触れられたそこから五体に巡るのは、爛れそうなほどに熱い、激情だった。 「俺はおまえがどうであれ、汚いだなんて思わないから、だから…。」 「こんな俺でも、そう言えるのか!?」 冷蔵庫を挟んで反対に位置するシンクに、気付いたら南を押し返していた。 東方は続きを拒むようにその唇を右手で塞ぐと、半ば乗り上げている南の腰のすぐ脇に、左手をついた。 力の抜けた南の、それでも東方の腕を離さない手が震えている。 怯えるようにこちらを窺ってくる姿すら、扇情的に見えた。 狭い空間で密着し合い、脚の間に割って入ったその体勢はまるで、夜な夜な悩まされた浅ましい夢そのものだった。 掌から床に滑り落ちていたペットボトル。 注ぎ口から流れ出した水が、足元を濡らす感触で我に返った。 「…ごめん、何でもない。今のは忘れてくれ。」 酔っ払っても南が記憶をなくしたことなどないのを承知で、身勝手な嘘をつく。 名残惜しそうに揺れた南の瞳が、離れて行く東方と透明な液体のどちらを映していたのかはわからなかった。 求めていた温もりは、一瞬で腕からすり抜けていってしまった。 虚しく宙を切った後脱力すれば、押し寄せるのは自責の念だけ。 何もできないことを悔やんでいたはずの二人なのに。 |