濁り(前編) |
それはたまたま思いついた、わがままという名の信頼つもりだった。 いつもは用もなければメールなどはしない、そもそも一緒にいる時間が長い二人だから、その用というのが発生する確立からして、僅かだ。 こういうことを言ったら怒る、喜ぶというよりも、気付いたら呼吸が合う。 気心が合うとはこういうことだと、南は東方のことをそんな風に思っていた。 意志が弱いというよりも、気が乗らない・嫌なことは割と表情に出る。 それが面倒で、人付き合いが淡白なんだと。 南には少しだけ、許容範囲が広いんだと。 だから今晩も、もし東方が眠たくなれば「あとは頑張れよ。」と返ってくるものだと、宿題の間に気まぐれで携帯を開いた。 答えに詰まって人に訊くのは簡単だ、だがそれでは意味がないのは南もわかっていて、そもそも努力でどうにかなるものを、人の手を借りることは屈辱に近いものがあった。 東方もむやみに「大丈夫か?」を投げてはこない。 これも確かめ合ったわけではないが、こんな高めあえる関係を、南は密に誇りに思っていた。 南が先代から引継ぎ部長になって数ヶ月、必ずしも順風満帆ではなかったが、誰かではなくて、気付いたら彼が隣りにいた。 大事な人はひとりだけ、そうは思わない。 どんなに歯向かわれてもテニス部の部員である限り、同じ仲間でありライバル。 そこはこれから、南の姿勢で引っ張って行くつもりだった。 だから東方の、こちらから意見を仰がない限り口を出してこない、一歩引いた位置は、とても心地良い。 テストである程度の成績を残せば高校には進学でき、自由な校風もあいまって、外部受験する者以外は部活に精を出す生徒も多い。 テニス部に重きを置くと勉強はついおろそかになりがちで、かろうじて南のプライドがそれを両立させていた。 同じ量の練習をこなし、その上塾にまで通っていて、成績をひけらかさない東方には、尊敬の眼差しを向けるほどだ。 きっとそれは、南のスポーツ推薦と形は違えど同じものだと。 そんな東方と一緒にダブルスを組めるのが、南は嬉しくて仕方なかった。 送信してすぐに、着信音が鳴る。 『わかった。俺も今塾の予習やってるから、寝るまで付き合うよ。』という予想通りのものだった。 部長としてではなく、こうして一人の南健太郎に戻った時に、選ぶではなく自然と思い浮かぶのも東方だった。 「塾…かぁ。」 携帯を片手に、南は机に頬杖をついた。 勝手にこのままずっと、一緒に高校に進学してダブルスを組むものだと南は思っていたが、時々もしかしたら…という考えが浮かぶ。 南はテニスがやりたくて山吹を選んだが、東方は小学校の時から塾に通っていたと聞いた。 いわゆる「お受験」というものだろう。 大学までエスカレーター式の私立の山吹に入学してからもそれを続けているということは、必ずしも望んだ結果ではないということなのだろうか。 いつも目の前のことに精一杯な南は、東方にダブルスのこと以外、相談らしきことを持ちかけられた記憶がなかった。 例えいつもと違うな、というところがあっても、南の方に部内の揉め事やクラスの友達とのささいないざこさが起こったら、そちらに意識が捕えられているうちに、何時の間にか元の東方に戻っている。 「そもそも、どこが違うかわからない時点で、失格かもな…。」 コートの中にいる彼は、確かに頼もしい。 そこにはきちんと、的確な指示を出す南と、それに納得して動く東方という図式が成立している。 人に頼られると使命に燃える東方と、頼られるプレッシャーには弱いが人の役に立てると嬉しい南だから、バランスがとれている。 確かにテニスでは申し分のない関係だ、ということはわかる。 元々感情で行動する南だから、理屈で行動する東方のことが理解できないのは当然だという認識だった。 これ自体、千石などに言われて気付いたことだったが、それでも一緒に笑ったり喜んだりする東方に、他に何かが隠れているなどと疑ったことはない。 物足りない、と感じるのはここ最近で、それでも、やっぱり南には大事な友達に変わりはない。 実直な性格から周りは腹に溜めずに何でも言い合うような人間が多く、東方の思慮深い性格はもどかしいと思えど、貴重な存在だった。 「ひとこと、『進路どうするんだ?』って聞くだけだろ?」 先ほどから独り言を呟いては開閉していた携帯を、振り返らずに後ろ手で放り投げた。 ゴトン、と鈍い音。 キャスターつきの椅子を慌ててバックさせ、拾い上げようと南が座ったままそれに手を伸ばせば、計ったようにランプが点滅する。 『何問進んだ?』 同じクラスだから時間割も当然一緒で、宿題が出ている科目は数学しかない。 教えてくれ、のシグナルではないから、気まぐれで始めたやりとりを、何か他の相談があると汲んでくれたのだろうか。 それとも、単に南を励ましてくれているのだろうか。 もっと単純に、ただのからかいだろうか。 最後の答えが普通の二人において、それでは片付かないことがこの頃多いのも、また事実だった。 正確には南の、「片付けたくない」という独りよがりもある。 南が頼ると、東方は表情が柔らかくなる。 それを知っているのは自分だけではないかもしれない。 そこでいつも苛々して、先に進めないだけに、どこまでがいつもの東方か、わからないのだった。 『これから休憩!コーヒーいれてくる。』 東方の質問をはぐらかして、南はドアを開け、なぜだか逸る気持ちを押さえるように、そっと階段を降りた。 自分があれこれ考えているうちに、東方は着実に予習を進めているのだろう。 そういう器用なところは凄いな、と思える。 「なんでそこで終わらないんだろうな…。」 首を傾げながら透明な容器から直接、インスタントを注げば、思ったよりマグカップに積もってしまった。 勢いよくお湯を注いでも濃さが薄まることもなく、誤魔化すつもりで牛乳と砂糖を投入したら、眠気覚ましには効き目がないような色のものができあがった。 見た目に反して、という僅かな望みにかけて南がそれに口をつければ、予想外の熱さに目を瞑った。 舌を出して軽くひとさし指でなぞれば、そこはヒリヒリと痛む。 苦みばしったはずのコーヒーが、妙に甘ったるさだけを残して喉元を過ぎて行った。 結局、何とか全問解き終えた頃には、日付が変わってから大分経っていた。 東方から先に寝る、という連絡もなく、かといって何時の間にか相手が寝ていたら、着信音で起こしてしまうかもしれない。 それでも、きちんと終わったことを知らせないのは、先ほどの『何問進んだ?』に屈したようで悔しかった。 おやすみを言ったらすぐに返事があり、もうその時点で負けていると南はベッドに突っ伏したが、すぐさま『ところで、コーヒー飲んで、眠れるのか?』と追い討ちをかけられ、布団を頭まで被って不貞腐れた。 答えを焦らすつもりが、途中で意識を手放しベッドから腕がだらりと垂れていた。 アラームが鳴るまで開いたままでカーペットの上に置き去りにされた携帯には、『眠れたみたいだな。おやすみ。』の文字。 一番照れ臭い解釈に眠気も吹っ飛んだ後に、デジタル表示を見返せばシャワーを浴びるすら時間もあやうかった。 それでも必死の抵抗で昨日までを洗い流し何とか髪を整えて、いつもの電車に飛び乗った。 おはようと言ってくる東方はいつも通りで、南は咄嗟に自分の頭に手を伸ばしそうになったが、スボンをぎゅっと握り締めて回避した。 メールがきていた時間からするに、彼も寝不足であることにかわりないのだが、いつも何時ぐらいに寝ているのか、さすがにそれまではわからなかった。 千石などと楽しそうに、知らない深夜のテレビ番組の話をしているところから、少なくとも南よりは夜更かしに慣れているのかもしれない。 家に帰ってから何をしようがしまいが、それは彼の領域で、お互いに改めて不可侵条約を結んだわけではないが、そこにいる彼が全てで、そもそも南は改めて意識したことがない。 湧き上がる小さな不安は「知らないこと」への恐怖なのだろうか。 「眠い?」 東方に声をかけられて、南は初めて、自分の指からシャーペンが机の上に転がり落ちていることに気付いた。 「いや、大丈夫。東方くんの気のせいだっ。」 今朝目にしたメールが蘇って、声が上擦る。 机をドンと叩いた南の行動は、やや空回り気味だったかもしれない。 「何だよ急に…南って面白いなぁ。」 「そっちこそ何だよ、面白いって…。」 「ん?うーん。いい意味で。」 放課後一通りの練習を終え、部長としての雑務をこなす南を、テ−ブルの向かいの席で東方が待っている、そんないつもの光景。 握る形のままで開かれた南の指に、拾われたペンが収まって、片肘をつきながら案の定笑いかけてくる東方を一瞥すると、ノートに視線を落とした。 「そういや、口の中怪我したのか?いつもと喋り方が違う。」 「え!?」 何故だかぎゅうっと、掴まれたように胸が痛くなって、南は思わず声をあげてしまった。 彼の、見てないようで見ている観察眼に驚くわけでなく、いつも見られていたという現実に驚いた自分に。 「あ、いや、ベロを火傷しただけ。…なっ?」 目を伏せながら前のめりになり、おどけたように舌を出せども、返事がない。 急に沈黙が怖くなり、薄っすら開いた南の瞳が東方を捕えると、先にすっと逸らされる。 何かを思い詰めたような、それでいて諦めているような。 ひどく縋ってこられているような、近付くなと線を引かれているような。 南が時々感じている違和感。 それが今日はいっそう大きかった。 まるで南の知らない東方がそこにいて、一刻もここを逃げ出したいような焦燥に駆られる。 「はは、まぁ、そのうち治るさ。気にするな。」 先に切り出してくれたのは東方で、「そうだな。あ、もうちょっとで終わるから!」と返したのは南。 そんな彼に対して、今の俺のことは忘れてくれという意味なのかと、穿った見方をしたのも初めてだった。 そこでずるい、と思ったのも。 そうしたら強烈に東方のことを意識してしまい、書くべきものも思い浮かばない。 南は書き殴るようにして空欄を埋め、ちらっと盗み見れば、彼の黒目もどこか彷徨っている。 何となく、触れてはいけないことだと直感したが、彼をそうさせる原因だけはどうしても思いつかなかった。 |