濁り(後編) |
「あ。」 いるはずのない後ろ姿を見つけて、ただでえさえ人気のない廊下に南の声がこだました。 「今日、塾じゃなかったのか?」 窓から外を眺めていた東方の隣りまで行くと、壁を背にし、ひとり分ほどの隙間を開けて座り込む。 練習の後すぐに東方が帰る曜日だったため、帰りたくなかった南は、こうしていつも時間を潰す場所へと足を伸ばしていた。 それが、誰にも気付かれていないと思い込んでいた、教室がない棟の、さらに階段をのぼって奥まったところの個室だったから、何となくバツが悪かった。 「休みだったっての忘れてたんだ。だから一緒に帰ろうかなって…ハンカチあるか?」 「あー…、でもいいや、気持ちだけ。」 上から東方の視線を感じると、いっそう掌の傷が痛んで、南は思わず両手を後ろに引っ込めた。 「そうか、じゃ、とりあえず、これ伴爺に出して戻るか。」 ここにやってくるまで、万が一叫んで周りに聞こえたらどうしようか、とか、自分のロッカーに貴重品の入ったバッグを放り込んで鍵を掛けるまでは頭が働いたが、肝心の部室は開けっ放しだったらしい。 残された部誌を見て、東方はまだ南が残っていることに気付いたらしかった。 内緒にしていた避難所をどうして彼が知っているのか、それをわざと持ち出さないのが東方なりの優しさなのか。 ごちゃごちゃと揺れ動く心より、一緒に帰ろうとわざわざ引き返してくれたその事実が勝ってしまう。 実際に、あの日から暗に部室で二人っきりになるのを避けられていたようにも感じていたから。 「あぁ。サンキュー東方。」 ニ、三度軽く頭をかすめたそれを左手で受け取ると、ジャンプするように勢いをつけて立ち上がった。 練習の後の疲労と滑りやすい廊下の悪条件が重なって、ポーズを決めるはずの最後は、見事にバランスを崩してしまい、よろけてしまった。 「あ、ごめん。」 南は最悪手だけはつかなければ、と頭で考えるより早く、持ち前の反射神経で体勢を立て直している、はずだった。 背中に気配を感じて己の身体を見下ろせば、脇から手を差し入れる形で抱きかかえられていた。 「いや、無茶するなよ、あんまり。」 無茶に含まれる意味より、東方の体温を意識してしまって驚き開いた口から、上手く言葉が出ない。 思っていたよりも、低いそれに。 「南?」 「っと、あぁ、ごめん。考え事してた。」 促す穏やかな口調はいつもの東方で、だから余計に温度差が全身を伝った。 彼から発せられた冷ややかな一言とともに。 「ドア蹴飛ばすぐらい、許されると思うぞ。あんな下らない奴らに、南からテニスを取り上げる権利、ないんだから。」 東方が言う「あんな奴ら」というのは、南が今ここへやってきた原因だった。 本人の不注意による怪我を、練習メニューの説明不足だと全員の前でどやされた。 息を切らして駆け寄った南が差し出した手を払い除けながら、挑んできたあの目。 誰が見ても理不尽な怒りの矛先を向けられた部長は、何か言いたそうな仲間を制して頭を下げた。 南が再び天を仰いだその時、視界の隅に映った、にやりと上がったあの口端。 全身の血液が逆流するように自分の中の何かが暴れ出しそうになるのを、深呼吸をして何とか落ち着かせた。 その場の空気を千石が和ませてくれ、「先輩は手本になるべく、自覚を持ってやってくれ。」と釘を刺すのが精一杯だった。 「自分こそ、自覚持ったらどうなんだよ。」 「なー。」 背後から浴びせられる嘲笑。 寒空の下でも紅潮した顔面の熱を、吹き付ける北風がさらって行く。 もう一度息を吸うと、まるで氷の刃が肺にまで突き刺さるようだった。 嫌なこと、面倒なことから逃げない。 誰とも対等で、公平に気配り。 それは組織の頂点に君臨する立場での、大義名分。 現実はこうしてトイレの個室に篭って、悔しさを噛み締めることしかできない。 誰かに情けないところを見られたらと、その時点で弱さに負けていることも承知だった。 喚き散らせなかった思いを何とか笑顔の下に閉じ込めて、寄り道という名の優しい時間をやんわりと断り、もつれそうになる足を引きずってくる途中。 絶えず纏わりつく不快感とともに蘇ってくる、怪我をした部員達に侮蔑のような視線を送る東方。 帰って行く背中が小さくなっていくことに、不安さえ覚えたりした。 「南は充分、よくやってるよ。それは俺が一番知ってる。だからさ。」 解放されずに畏縮した南の指を、一回り大きい東方のそれが、一本ずつ、解していく。 「南はテニスだけ見てればいいんだよ。俺の居場所は、俺が見つけるから。」 「…っ。」 高めあえる、対等な関係だと思っていたのは、南だけだった。 甘い言葉に緩んではいけない。 わかっているはずなのに、どんよりと低い灰色の雲間から、南にだけ一筋の光を注がれているような優越感に溶かされてしまいそうだった。 「何か一つでも打ち込めるものがあるってこと、誇っていいんだぞ。」 一年生の台頭で、レギュラーからあぶれた何人かのグループが、自分の悪口を言っているのは前から知っていた。 南とて温情だけでやっていけないのはリーダーとして実感していて、それでも彼らの腐りそうになる気持ちを汲んでやれないのは、ずっとダブルスで公式試合に出ている自分だからなのかと言い訳しそうになるのを、寸でのところで踏ん張っていたから。 「テニスを嫌いになったら、自分に負けるのと一緒なんだから。」 単に負けず嫌いの南の背中を押してくれているはずの東方の優しさ。 その奥にあるものももっと、知りたいと思った。 気付いた呼び名は、ただの『独占欲』。 爪が喰い込んで血が滲んだ傷跡を、親指でなぞる東方の行為は、『親愛の証』。 それなのに押し寄せる不安。 「サンキュー。やっぱり昇降口で待っててくれよ!ダッシュで着替えてくるからさ。」 与えられる優しさを振り切るように、その温もりから抜け出すと、廊下に落とされた長い影が二つ。 振り向いた先に佇む東方の顔は、あの日と同じ陰を落としていた。 本当に知りたかったことは、未だに雲がかかっている。 覗く勇気もないから今は、東方の言葉に甘えることにした。 彼の本当に言いたかったことにも蓋をして。 「結局俺がもっと強くならなきゃってことだよな。」 湯船に浸かりながら一日のことを思い出していた南は、わかりきっていたことを呟いてみた。 タイルに反響して降りかかってくるそれは、考えていた以上に重たくて、泣きたいほど染みてきて、疼くそこに口付けた。 先の見えないねじれた未来が、冬とともに少しずつ忍び寄ってきていた。 |